モンゴル文学を真の文学へと昇華させた2大傑作:『わが故郷』と『悲しみの三つの丘』
社会
ーナツァグドルジ生誕120周年にー
(ウランバートル市、2026年4月9日、国営モンツァメ通信社)モンゴル近代文学の礎を、誇り高く美しく築き上げた天才作家、ダシドルジ・ナツァグドルジの生涯は惜しくも短いものでしたが、同氏が遺した遺産や優美な描写の数々は、今なお国民の意識や精神に強い影響を与え続けています。
生誕120周年という節目を迎え、モンゴル人民教師であるチョイジルスレン・ジャチン教授に話を伺いました。ナツァグドルジの「真実の姿」や、同氏の手稿中に「隠されていた」興味深い事実について解き明かしていただきます。
――モンゴルの数世代もの人々を、その美しく情熱的な作品で啓蒙してきたナツァグドルジは、「モンゴル近代文学の先駆け(初の作家)」と呼ばれています。しかし最近では、「モンゴル近代文学の創始者の一人」と語られたり、記されたりしているのを目にします。「創始者」なのか、それとも「創始者の一人」なのでしょうか。その理由も含めて教えてください。
ジャチン教授:ナツァグドルジをモンゴル近代文学の「創始者」と呼ぶようになったのは、おおよそ1960年代からのことです。遡りますと、1945年に彼の14の作品を収めた選集が発行されたのが最初でした。
ツェンド・ダムディンスレン・アカデミー会員が「ナツァグドルジはモンゴルの古典作家である」と記しています。これは非常に根拠の確かな、深い洞察に基づいた結論です。
ダムディンスレンは、「ナツァグドルジの作品は、我々の世代だけでなく、後世の人々も関心を持って読み続けるでしょう。同氏はそれほどまでに価値のある作品を書き残したのである」とも述べています。確かに、それ以降もナツァグドルジの文学的遺産は広まり続け、今日では100を超える作品を読者が目にすることができるようになりました。その後、1966年に生誕60周年を迎えた際、モンゴル作家同盟や知識人たちがより一層の関心を寄せ、かなり詳細な選集が発行されました。これらを踏まえて、「ナツァグドルジこそがモンゴル近代文学の創始者である」という結論に至ったのです。
このように結論づけられた理由は、主に二点あります。①全ジャンルでの成功:文学のあらゆるジャンルにおいて成功を収め、それらの作品が読者に広く、深く浸透したこと。②近代文学語の形成:現代モンゴルの文語が形成される過程で、特別な役割を果たしたこと。今日の文語における文章のスタイル、語彙の選択、文の構造など、あらゆる要素がナツァグドルジの作品の中で具現化されています。
意図的なのか、あるいは無意識になのか、一部では『モンゴル近代文学の創始者の一人』と呼ぶ動きも出てきています。しかし、実際に1930年代の作品群の中で、今日、誰の作品が、どれほどの人々に読まれているかを考えてみてください。そうすれば、疑いようもなく、全てのモンゴル人が読んでいるのはナツァグドルジであるという事実に突き当たります。
「街へ出て周囲を見渡せば、誰もがごく自然に『ヘンティー、ハンガイ、サヤンの高く麗しき嶺々・・・』と口ずさんでいる、といった具合です。ですから、単に『モンゴル文学の創始者』というのではなく、『モンゴル近代文学の創始者(近代モンゴル文学の創始者)』であると断言することには、十分すぎるほどの根拠があるのです。ただし、この言葉は、決して他の人々や他の作家たちの価値をおとしめようとする意図で申し上げているのではありません。
絵:J.サロールボヤン画家 『ムンフ・テンゲリン・ドゥル(永遠なる蒼天の下で)』

ー文曲星のもとに生まれた男、ナツァグドルジー
――ナツァグドルジは文学のあらゆるジャンルで執筆されました。同氏の創作活動の全盛期は1930年〜1936年頃であると言われていますが、一人の作家がこれほど多才であることは、どれほど稀なことなのでしょうか。
ジャチン教授:ナツァグドルジというのは、まさに「書くための星(文曲星)」のもとに生まれた人のようです。同氏は執筆の習慣や経験を、まず「ゲル学校」を通じて身につけました。『ツァーサン・ショヴーニー・ウルゲル(紙鳥の物語)』や『オヨーン・トゥルフール(知恵の鍵)』に始まり、『新しい鏡』といった、当時の知識人が嗜むべきあらゆる書物を読破していた形跡があります。
つまり、第一に同氏は「多読家」であったということです。さらに、自治期(1911年〜1919年)のフレー(現在のウランバートル)に設立された中学校に通っていたのではないか、と思わせる資料も残っています。公式の名簿には名前がありませんが、父のダシドルジ氏が、息子が志願してその学校に通えるよう計らった形跡があるのです。このように、ナツァグドルジは非常に早い時期から学問に励んでいました。
ナツァグドルジの手稿や遺品を調べてみますと、中国語で記されたものが少なくありません。また、ロシア語で書かれた記述も見受けられます。
ジャチン教授:「当時の中学校のカリキュラムにはロシア語と中国語がありました。もちろん、後に従事した留学生活の中でロシア語とドイツ語を習得しています。驚くべきは、ドイツ語をわずか3、4年という短期間で、現地のドイツ人に引けを取らないレベルまでマスターしたことです。ナツァグドルジの書いた文章をドイツ人に見せたところ、『まるでドイツ人が書いたようだ』と言われたこともありました。同氏は類まれな才能と熱意を持ち、まさに不屈の努力家でした。
つまり、ナツァグドルジが社会・政治の表舞台で幅広く活躍できたのは、同氏自身の深い教養に天賦の才能が加わり、さらに時代の要請が重なった結果であったと言えます。
それゆえ、ナツァグドルジはその短すぎる生涯の中で、あらゆる役割を果たすことを宿命づけられ、それを見事に成し遂げた芸術家であり、国家・社会の指導者でもありました。私たちは今日、彼の歩みを誇らしく、そして喜びをもって語ることができるのです。
ーマルコ・ポーロの旅行記をアジアで初めて翻訳した人物ー
――大文豪の生涯は、本当にもどかしいほど短いものでした。同氏の内面の葛藤や孤独は、直筆の草稿にどのように表れているのでしょうか。先生にとって特に興味深かった点をお聞かせください。
ジャチン教授:作家の手稿というのは、いわばその人の内面世界へと通じる入り口のようなものです。苦悩や悲しみ、喜びや悔しさといったあらゆる感情が、筆跡の中に刻まれています。病院に入院していた時の様子や、夜も眠れずに座り込んで執筆していた形跡までもが、手稿には残っているのです。私にとっては、同氏の人生の瀬戸際における一瞬一瞬や、彼が歩んだ生そのものが、何よりも興味深いものでした。

――多くの国々が偉大な作家を紙幣の肖像に採用しているように、若手研究者の間では、ナツァグドルジ氏をモンゴルの通貨(トゥグルグ)のデザインに採用しようという呼びかけもなされています。先生はこの提案についてどうお考えでしょうか。それとも、さほど重要な問題ではないと思われますか。
ジャチン教授:「いえ、非常に重要なことです。この生誕120周年の節目に、何か一つでも形に残ることをしてほしいと願っています。もし紙幣への採用が難しいのであれば、せめてこの記念すべき年のために切手を発行するだけでも素晴らしいことだと思います。多額の費用がかかるそうで、切手一枚作るのさえ難しいといった話も耳にしますが。わが国の古典作家であるナツァグドルジを、単なる過去の人ではなく『精神世界の指標』として捉えてほしいのです。例えば、ある産業について何か素晴らしい表現をしたいと思った時、あるいは、湧き出る泉や水(ラシャーン)の美しさを伝えたいと思った時、『ナツァグドルジなら、これをどう表現しただろうか』と、私たちが真っ先に思い描き、頼りにする存在です。それこそが、まさに、ナツァグドルジなのであると私は確信しています。」
――インタビューありがとうございます。