インタビュー
(ウランバートル市、2026年4月23日、国営モンツァメ通信社)近代モンゴル文学の創始者であり、今年は偉大な文豪であるダシドルジ・ナツァグドルジの生誕120周年の節目を迎えている。ナツァグドルジの科学研究委員会の言語研究室の研究員を務めていた時期に焦点を当て、モンゴル科学アカデミー(MAS)言語・文学研究所の所長であるO.シネバヤル博士(准教授)に話を伺った。
――科学機関の創設初期において、ナツァグドルジはどのような役割を担っていたのでしょうか。特に、1935~1936年にかけて「言語研究室の主任」を務めていた際、どのような仕事を成し遂げたのでしょうか。
ナツァグドルジの知識や技術、そして残した業績を振り返ると、非常に多岐にわたる分野に尽力していたことが分かります。母国語に精通し、古文書の研究にも深く携わっていたナツァグドルジは、同時に欧州の言語や文化にも明るい人物でした。そのため、モンゴル語・文字の発展やラテン文字化の規則策定、更にモンゴル語解説辞書の基礎作りにも参画しました。1936年に言語学研究室の主任に就任すると、物理学、化学、政治、経済、軍事、医学、技術、書誌学など、各分野の用語制定作業を指揮し、自らも実務に携わりました。また、1930年代に同氏が編纂した「独蒙辞典」は、1万語以上の見出し語を収録した546頁に及ぶ手稿であったと伝えられています。更に、科学研究所に勤務していた1931年に、雑誌『シネチレリーン・メデー(革新のニュース)』の発刊計画を立案しました。ナツァグドルジは、この雑誌の目的を「科学、文学、経済の発展と研究」と定義し、掲載する記事の内容や執筆者のリストに至るまで、詳細な構成案を作成していました。
これは、現在の科学新聞や学術雑誌の先駆けとなったと言えるでしょう。その後、1935年に同研究所が雑誌『シネ・トリ(新しい鏡)』の刊行計画を立てた際にも、ナツァグドルジは委員会の一員として名を連ねました。また、1929年のモンゴル作家同盟の創設に尽力したほか、1931年にモンゴル革命作家協会(МАРЗ)の出版責任者に選出されました。そこでも文芸誌『МАРЗ』の構想を練り、執筆者や内容の割り当てまで細かく決定していました。
また、わずか1年の間に全3章60項目以上からなる「モンゴル語およびラテン文字化の規則」を書き上げ、出版の準備を整えました。これは1930年代に試みられたラテン文字導入の先駆的な取り組みを反映したものです。この規則は1932年1月、科学研究所の評議会で審議にかけられたと記録されています。その際、ナツァグドルジは外国人学者の著作を参考にするだけでなく、中央ハルハ方言をはじめとする各地の方言を調査して取り入れました。残念ながら、この著作の現物は現在見つかっていません。他にも、モンゴル語の類義語辞典の編纂に着手して言語の洗練に努めたほか、ロブサンダンザンの『アルタン・トブチ(黄金史)』の出版準備も進めました。加えて、モンゴルの社会・政治・科学界の重鎮であり啓蒙思想家・学者でもあったJ.ツェヴェーン氏と共に、イェロー地方に滞在した際、民族学に関する資料を収集し、古代の民話や伝説、口承文芸の記録にも取り組んでいました。
モンゴル語学および文学研究におけるナツァグドルジの多大な功績として、文学・言語学に用いる約1000語の学術用語を整備したことが挙げられます。同氏はラテン語やギリシャ語を語源のベースとし、そこにモンゴル語、ドイツ語、ロシア語を対照させたリストを作成・校閲し、出版直前の段階までまとめ上げました。それだけでなく、ナツァグドルジは科学研究所の評議会で審議を経て決定を取り付け、この著作を『言語学用語集』と名付けました。1935年に出版へ回されたことが研究所の報告書に記録されています。しかし、完成していたはずの同作品も、現存しません。というのも、ナツァグドルジが政治的迫害を受け、投獄された際に所持品を没収されたことが原因であると考えられます。
1931~1932年にかけて使用されていた同氏の「手帳(folklore)」は、現在もモンゴル科学アカデミー言語・文学研究所に保管されており、最も価値のある遺産の一つとなっています。

(ウランバートル市、2026年4月17日、国営モンツァメ通信社)20世紀を代表する歌曲として顕彰された「熱き身内のわが故郷」を数多くモンゴルで広く歌い継がれてきた数十曲に及ぶ歌曲の作詞者であり、ジャムツ・バドラー文化功労者兼芸術研究者の生誕100周年を迎えました。同氏は、作家、詩人、民俗学者、言語学者、翻訳家、芸術研究者として多分野にわたり知見を広め、後世に貴重な知的遺産を残した。また、伝統を尊び継承する民族の統一的な価値観と精神の強化に多大な役割を果たした。20世紀の知識人であり啓蒙者でもあった。その末息子のバータルナラン氏の娘であるツェツェンツォルモン氏は、祖父の志を受け継ぎ、芸術研究者となっている。今回は祖父について、同氏に話を伺った。

ーーお祖父さんはどのような方でしたか。モンゴルの人々の心に深く刻まれた優れた作品の作者というだけでなく、ご家庭の中ではどのような性格で、どのように家族を支える存在でしたか。
祖父が1993年に逝去するまで、私は一緒に暮らしていました。祖父は自分のあらゆる時間とエネルギーを創作、学問、研究に注いだ人であったと思います。子や孫に対して絶えず教え諭すというより、自らの姿で手本を示す人でした。モンゴル語学や文章表現に精通していたため、私たちの言葉遣いはいつも正してくれました。
また、とてもユーモアがあり、茶目っ気のある性格で、皮肉や冗談を交えてよく話していました。非常に誠実で正直な人で、嘘をつくことができない性分でした。家の電話が鳴り、祖父が出たときに、兄が時々「いないと言って」と頼むことがありました。その際、祖父は「いません」とだけ伝えてすぐ電話を切り、「ああ、なんということだ、人にこんな良くないことをさせてしまった」とでも言うように、とても心を痛めた様子で、手を合わせて祈っていたのを覚えています。幼い子どもに対しても、常に大きな敬意をもって接する人でした。
ーー当時、お祖父さんのお宅にはどのような本があり、どのような暮らしや雰囲気でしたか。
今でも祖父の家はそのまま残っており、祖母がそこに住んでいます。祖父の祖父は、ジャルハンザ・ホタグト・ダムディンバザルの実兄にあたります。ホタグトの子孫として家系を代表する立場にあったため、家のウニ(天井を支える部材)の一部や、幼少期に使っていたという木製の人形、数珠などが残されています。更に、経典や仏像・祭具などの文化的に貴重な品や収蔵物もいくつかあります。

ーーお祖父さんの手稿や記録をご覧になって、どう感じられますか。
祖父は一つの内容について、手書きだけでなくタイプライターでも2~3部作成し、保存していました。自宅には非常に多くの紙資料やアーカイブが残されています。当時の公演やコンサートの招待状、案内、チケットなども数多く保管されています。これらをまとめてチケットのコレクションとしてアルバムにすれば、その時代の色彩やデザインを示すものとなり、とても興味深いと思います。各種団体や工場などから民俗芸能をテーマに講義を依頼する招待状なども数多く残されています。
ーーご家族に残されたお祖父さんの最も大きな「遺産」について、差し支えなければ教えていただきたいです。
やはり私たちの「思想」と言えると思います。祖父は国家のために尽くすこと、そして自らの志に誠実に向き合うことを何より大切にしていました。
そのため、「個人的な利益や名声のためではなく、学問と知識に打ち込み、他者の幸福のために心を尽くす」という考え方こそが、私にとって祖父から受け継いだ最も大切な「遺産」であると感じています。
ーーインタビューありがとうございます。
ーナツァグドルジ生誕120周年にー
(ウランバートル市、2026年4月9日、国営モンツァメ通信社)モンゴル近代文学の礎を、誇り高く美しく築き上げた天才作家、ダシドルジ・ナツァグドルジの生涯は惜しくも短いものでしたが、同氏が遺した遺産や優美な描写の数々は、今なお国民の意識や精神に強い影響を与え続けています。
生誕120周年という節目を迎え、モンゴル人民教師であるチョイジルスレン・ジャチン教授に話を伺いました。ナツァグドルジの「真実の姿」や、同氏の手稿中に「隠されていた」興味深い事実について解き明かしていただきます。
――モンゴルの数世代もの人々を、その美しく情熱的な作品で啓蒙してきたナツァグドルジは、「モンゴル近代文学の先駆け(初の作家)」と呼ばれています。しかし最近では、「モンゴル近代文学の創始者の一人」と語られたり、記されたりしているのを目にします。「創始者」なのか、それとも「創始者の一人」なのでしょうか。その理由も含めて教えてください。
ジャチン教授:ナツァグドルジをモンゴル近代文学の「創始者」と呼ぶようになったのは、おおよそ1960年代からのことです。遡りますと、1945年に彼の14の作品を収めた選集が発行されたのが最初でした。
ツェンド・ダムディンスレン・アカデミー会員が「ナツァグドルジはモンゴルの古典作家である」と記しています。これは非常に根拠の確かな、深い洞察に基づいた結論です。
ダムディンスレンは、「ナツァグドルジの作品は、我々の世代だけでなく、後世の人々も関心を持って読み続けるでしょう。同氏はそれほどまでに価値のある作品を書き残したのである」とも述べています。確かに、それ以降もナツァグドルジの文学的遺産は広まり続け、今日では100を超える作品を読者が目にすることができるようになりました。その後、1966年に生誕60周年を迎えた際、モンゴル作家同盟や知識人たちがより一層の関心を寄せ、かなり詳細な選集が発行されました。これらを踏まえて、「ナツァグドルジこそがモンゴル近代文学の創始者である」という結論に至ったのです。
このように結論づけられた理由は、主に二点あります。①全ジャンルでの成功:文学のあらゆるジャンルにおいて成功を収め、それらの作品が読者に広く、深く浸透したこと。②近代文学語の形成:現代モンゴルの文語が形成される過程で、特別な役割を果たしたこと。今日の文語における文章のスタイル、語彙の選択、文の構造など、あらゆる要素がナツァグドルジの作品の中で具現化されています。
意図的なのか、あるいは無意識になのか、一部では『モンゴル近代文学の創始者の一人』と呼ぶ動きも出てきています。しかし、実際に1930年代の作品群の中で、今日、誰の作品が、どれほどの人々に読まれているかを考えてみてください。そうすれば、疑いようもなく、全てのモンゴル人が読んでいるのはナツァグドルジであるという事実に突き当たります。
「街へ出て周囲を見渡せば、誰もがごく自然に『ヘンティー、ハンガイ、サヤンの高く麗しき嶺々・・・』と口ずさんでいる、といった具合です。ですから、単に『モンゴル文学の創始者』というのではなく、『モンゴル近代文学の創始者(近代モンゴル文学の創始者)』であると断言することには、十分すぎるほどの根拠があるのです。ただし、この言葉は、決して他の人々や他の作家たちの価値をおとしめようとする意図で申し上げているのではありません。
絵:J.サロールボヤン画家 『ムンフ・テンゲリン・ドゥル(永遠なる蒼天の下で)』

ー文曲星のもとに生まれた男、ナツァグドルジー
――ナツァグドルジは文学のあらゆるジャンルで執筆されました。同氏の創作活動の全盛期は1930年〜1936年頃であると言われていますが、一人の作家がこれほど多才であることは、どれほど稀なことなのでしょうか。
ジャチン教授:ナツァグドルジというのは、まさに「書くための星(文曲星)」のもとに生まれた人のようです。同氏は執筆の習慣や経験を、まず「ゲル学校」を通じて身につけました。『ツァーサン・ショヴーニー・ウルゲル(紙鳥の物語)』や『オヨーン・トゥルフール(知恵の鍵)』に始まり、『新しい鏡』といった、当時の知識人が嗜むべきあらゆる書物を読破していた形跡があります。
つまり、第一に同氏は「多読家」であったということです。さらに、自治期(1911年〜1919年)のフレー(現在のウランバートル)に設立された中学校に通っていたのではないか、と思わせる資料も残っています。公式の名簿には名前がありませんが、父のダシドルジ氏が、息子が志願してその学校に通えるよう計らった形跡があるのです。このように、ナツァグドルジは非常に早い時期から学問に励んでいました。
ナツァグドルジの手稿や遺品を調べてみますと、中国語で記されたものが少なくありません。また、ロシア語で書かれた記述も見受けられます。
ジャチン教授:「当時の中学校のカリキュラムにはロシア語と中国語がありました。もちろん、後に従事した留学生活の中でロシア語とドイツ語を習得しています。驚くべきは、ドイツ語をわずか3、4年という短期間で、現地のドイツ人に引けを取らないレベルまでマスターしたことです。ナツァグドルジの書いた文章をドイツ人に見せたところ、『まるでドイツ人が書いたようだ』と言われたこともありました。同氏は類まれな才能と熱意を持ち、まさに不屈の努力家でした。
つまり、ナツァグドルジが社会・政治の表舞台で幅広く活躍できたのは、同氏自身の深い教養に天賦の才能が加わり、さらに時代の要請が重なった結果であったと言えます。
それゆえ、ナツァグドルジはその短すぎる生涯の中で、あらゆる役割を果たすことを宿命づけられ、それを見事に成し遂げた芸術家であり、国家・社会の指導者でもありました。私たちは今日、彼の歩みを誇らしく、そして喜びをもって語ることができるのです。
ーマルコ・ポーロの旅行記をアジアで初めて翻訳した人物ー
――大文豪の生涯は、本当にもどかしいほど短いものでした。同氏の内面の葛藤や孤独は、直筆の草稿にどのように表れているのでしょうか。先生にとって特に興味深かった点をお聞かせください。
ジャチン教授:作家の手稿というのは、いわばその人の内面世界へと通じる入り口のようなものです。苦悩や悲しみ、喜びや悔しさといったあらゆる感情が、筆跡の中に刻まれています。病院に入院していた時の様子や、夜も眠れずに座り込んで執筆していた形跡までもが、手稿には残っているのです。私にとっては、同氏の人生の瀬戸際における一瞬一瞬や、彼が歩んだ生そのものが、何よりも興味深いものでした。

――多くの国々が偉大な作家を紙幣の肖像に採用しているように、若手研究者の間では、ナツァグドルジ氏をモンゴルの通貨(トゥグルグ)のデザインに採用しようという呼びかけもなされています。先生はこの提案についてどうお考えでしょうか。それとも、さほど重要な問題ではないと思われますか。
ジャチン教授:「いえ、非常に重要なことです。この生誕120周年の節目に、何か一つでも形に残ることをしてほしいと願っています。もし紙幣への採用が難しいのであれば、せめてこの記念すべき年のために切手を発行するだけでも素晴らしいことだと思います。多額の費用がかかるそうで、切手一枚作るのさえ難しいといった話も耳にしますが。わが国の古典作家であるナツァグドルジを、単なる過去の人ではなく『精神世界の指標』として捉えてほしいのです。例えば、ある産業について何か素晴らしい表現をしたいと思った時、あるいは、湧き出る泉や水(ラシャーン)の美しさを伝えたいと思った時、『ナツァグドルジなら、これをどう表現しただろうか』と、私たちが真っ先に思い描き、頼りにする存在です。それこそが、まさに、ナツァグドルジなのであると私は確信しています。」
――インタビューありがとうございます。
モンゴルと旧ソビエト連邦による共同宇宙飛行以来45周年を迎えた。今年の節目にあたり、モンゴル人民共和国および旧ソ連の英雄であり、「チンギス・ハーン」最高位勲章受章者で宇宙飛行士のJ.グルラグチャー少将に話を伺った。
ーー45年前、宇宙へと旅立たれました。最終的に飛行が決まった瞬間、どのようなお気持ちでしたか。
私たちは、共同宇宙飛行に向けて3年間の準備を重ねました。その間、いわゆる「スター・シティ」で、旧ソ連の宇宙飛行士らとともに「インター・コスモス」計画の訓練に参加しました。振り返れば、その3年間はほぼ一つの目標に集中した日々でした。実際の宇宙滞在はわずか8日間でしたが、そのために3年間を費やしました。それだけで宇宙飛行がいかに特別な任務か、お分かりいただけると思います。
打ち上げには厳密なスケジュールがあり、宇宙ステーションとドッキングするためには、ステーションがバイコヌール上空を通過する瞬間に合わせて発射しなければなりません。わずかな時間のずれも許されず、すべてが秒単位で管理されます。宇宙船は非常に高速で、1秒の誤差でも約8㌔㍍のずれが生じます。また、燃料や機体性能にも限界があるため、定められた時刻に正確に打ち上げる必要があります。
私たちの打ち上げは、3月22日、モスクワ時間午後5時58分59秒に予定されていました。打ち上げの2日前に国家委員会が開かれ、そこで最終的にどのクルーが飛行するのか、また予備クルーは誰かが決定されます。その瞬間こそ、最も緊張し、同時に胸が高鳴るときでした。自分が第一クルーに選ばれたと知ったときは、もちろん大きな喜びを感じました。
ただ、その一方で、私たちは2組4人全員が飛行に備えて訓練を積んできた仲間でもあります。選ばれなかったクルーの無念さを思うと、手放しで喜ぶだけではいられなく、複雑な気持ちもありました。
ーー8日間の宇宙滞在で、最も印象的だったこと、また最も大変だったことは何でしょうか。
宇宙での8日間は、分単位、秒単位で組まれた非常に綿密なスケジュールに基づいて進みました。どの時間にどの作業を行うか、ラジオやテレビの取材にいつ応じるかまで、すべてが事前に決められたプログラム通りに進行しました。
一般的に、宇宙飛行士にとって最初の2〜3日間は身体的に最も厳しいとされています。無重力環境に体が順応するまでには一定の時間が必要で、その過程の感じ方には個人差があります。また、民族的な特性による違いもあるかもしれません。
私の場合、少なくとも強い不安や混乱といったものは感じませんでした。訓練の段階で、無重力状態の初期に平衡感覚に影響が出て、かなりの不調を覚えることがあると繰り返し教えられていました。しかし、私にはそれほど強い影響はありませんでした。
振り返ってみると、モンゴルでの生活、とりわけ地方で育った経験が大きかったのではないかと思います。日常的に馬に乗って移動し、乳製品を中心とした自然な食生活を送ってきました。そうした生活が、知らず知らずのうちに身体を鍛え、さまざまな環境変化や負荷に耐えられる力を育んでくれていたのかもしれません。
ーー宇宙飛行士になるためには、どのような条件が求められるのでしょうか。
もちろん、様々な選抜基準がありますが、なかでも最も重要なのは健康状態です。それに加えて、これまでに身につけた専門分野や職務経験も重要な要素になります。
私自身は軍に所属しており、航空分野に関わる専門教育を受けてきました。宇宙に初めて飛び立ったユーリイ・ガガーリン氏をはじめ、彼とともに訓練を受けた約20人の宇宙飛行士は、いずれも私が卒業したジュコーフスキー記念空軍工学アカデミーの出身でした。そのような共通点もあり、自分の学歴や専門分野が、宇宙飛行士の候補として選ばれるうえで一定の後押しになったのではないかと感じています。
また、当時は若く、健康にも恵まれていました。そうした複数の要素が重なり、宇宙飛行の訓練に参加する機会を得ることができたのだと思います。
――インタビューの続きは「モンゴル通信」新聞でお読みください。

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ー世界水の日に寄せてー
(ウランバートル市、2026年3月23日、国営モンツァメ通信社)
人類の暮らしを支えるかけがえのない資源「水」をめぐり、Z.バトバヤル上下水道局長にお話を伺った。
ーーモンゴルはどの程度の水資源を有する国なのでしょうか。
モンゴルの水資源は、地域によって大きく偏在しているのが特徴である。例えばフブスグル湖周辺で水量が非常に豊富で、降水量にも恵まれている。一方、ゴビ地域では地表水はほとんど存在せず、降水量も限られている。こうした水資源は主に降水と地下水によって形成されている。
年間の水資源量は約610立方㌔㍍とされてきたが、2022年に556立方㌔㍍へと減少した。背景には永久雪や氷河の融解があるとみられる。国内の湖沼に蓄えられた水量は約500立方㌔㍍で、その約7割をフブスグル湖が占めている。河川の水量は合計で36立方㌔㍍である。
一方、実際の利用の大半は地下水に依存している。地下水の利用可能量は10.8立方㌔㍍と、全体の約2%にとどまるが、地表水の活用が進んでいないためである。このため、水資源の実態把握は容易ではない。降水については、およそ1割が地下へ浸透し、4割が河川へ流入、残りは蒸発して大気中へ戻るとされている。
ーーモンゴルで、今後どのような水資源管理や政策が求められるのでしょうか。
基本は「水を守ること」に尽きる。チンギス・ハーン時代の法典「イフザサグ」には、川で衣服を洗うことを禁じる規定があった。水を守り、水循環を損なわないという考え方が、すでに当時から示されている。
その観点から、地下水の過度な利用を抑えつつ、地表水を適切に保全していくことが重要である。ただし、単に囲い込んで人の利用を排除するだけでは、水の価値は十分に生かされない。利用と保全を両立させる「保全に基づく利用」という政策が求められる。
遊牧民の伝統的な生活様式は、環境負荷が小さく、自然を汚染しにくいものであった。しかし現在は人口の約半数が首都に集中しており、水資源を適切に利用しながら将来に引き継ぐという視点が一層重要になっている。
また、水資源の分布が偏っていることから、水の貯留対策の強化も欠かせない。生活用水の使用量は、2004~2005年には集合住宅で1日約250㍑、ゲル地区で約8㍑であったが、現在は集合住宅で約130㍑に減少し、ゲル地区はほぼ横ばいとなっている。
さらに、井戸の数は従来の300~400ヵ所から800か所以上に増加し、自動給水設備の導入も進んだ。衛生基準を満たした水の供給体制が整いつつある点は、大きな前進といえる。
続きは『モンゴル通信』新聞でお読み下さい。

(ウランバートル市、2026年2月27日、国営モンツァメ通信社)
馬のひづめの音、弓弦の響きの中で一瞬にして身体・脳・視覚・精神を集中させる技を極めたスポーツが「騎射(モリン・ハルワー)」です。騎射は遊牧民族の文化において重要な役割を果たしてきました。
チンギス・ハーンの時代、モンゴル軍は騎射によって世界的にその名を知られましたが、現代ではスポーツおよび伝統芸能として発展しています。
今回は、モンゴル騎射連盟会長兼ハン・モンゴル馬サーカス創設者であるSh.ツォグトフー氏にお話を伺った。
ーーモンゴルでは騎射というスポーツを短期間で復興・発展させ、成果を上げています。現代の騎射は伝統とどのように違いますか。
騎射と聞くと、多くの人はチンギス・ハーンが世界の半分を制した時代の、鎧兜をまとった勇壮な武人たちを思い浮かべるでしょう。歴史には、俊敏なモンゴル馬にまたがり、軽装の鎧を身につけ、弓矢を携えた騎馬兵の姿が記されています。当時の騎馬の英雄たちこそ、現代においては騎射スポーツの担い手なのです。
遊牧文化において馬は非常に大きな存在です。騎射は国際的にも高い水準で発展しており、将来的にはオリンピック競技に加わる可能性もあります。モンゴルの馬文化を世界へ発信する近道が、騎射という伝統文化なのです。
一見スポーツのようでありながら、もう一方では民族の無形文化遺産でもあります。まるで歴史をよみがえらせるかのような感覚を与えてくれる、素晴らしい競技です。国際大会も開催されるなど、国内の民族スポーツの中でも特に勢いよく発展している種目です。
私たちは衣装や装具、日常で用いる道具、そして技術においても海外の選手らと差別化されており、それこそがモンゴルの伝統文化の一部を成しているのです。
ーー 騎射選手は必ずどのような技術を身につけるべきでしょうか。
私は40年以上、サーカスの俳優として活動してきました。サーカスでは、馬上から弓矢や投げ輪を使ったり、さらには馬に乗った人の肩の上に立って的を射る演目も披露していました。そうした経験が、騎射というスポーツを愛し、発展させたいと思う大きなきっかけになりました。
急速に発展している分野には、当然ながら長所も短所もあります。過度に高揚しすぎるのは、必ずしも良いことではありません。成熟や倫理観がまだ十分とは言えない面もあります。たとえば、テコンドーや柔道では、選手が試合場に礼をし、師を敬うなど、明確な礼法や規律があります。
騎射もいずれは倫理や規則がより整っていくでしょう。師は師らしく、弟子は弟子らしくあるという倫理を制度として定めていく必要があります。発展の過程にあるのであり、時間の問題だと思います。
ーーこの競技で最も難しい点、そして最も面白い点は何でしょうか。
2004年、済州島(韓国)で初めて大会に出場しました。自分はできる、分かっていると大変自信満々で臨みましたが、そこで初めて、重要なのは単なる弓矢や射技だけではないと痛感しました。
それでも、サーカスのL.バトトル俳優と私はペアで銀メダルを獲得しました。「百聞は一見にしかず」という言葉のとおり、国際大会に出場することで多くの経験を積むことができました。
自分たちの強みは何か、何を学ぶべきかを研究し、正しい理論と技術、そして反復練習を重ねた結果、私たちは短期間で世界の騎射国際大会の舞台において確固たる地位を築くことができました。
現在では、モンゴル人選手が出場する大会はレベルが非常に高いことで知られるようになっています。
続きは『モンゴル通信』新聞でお読み下さい。





モンゴル西部ホブド県出身の舞踊家、ニャムツォージ・ブルマー氏は、幼少期から祖父のもとで伝統舞踊「ビエルゲー」を学び、現在は日本でモンゴル舞踊の普及に取り組んでいる。YouTubeでの交流や、多くの弟子とのワークショップを通じ、伝統文化を広める活動を続けている。
今回のインタビューで、日本で活動するボルマー氏を迎え、踊りや文化継承への思いを伺った。
ーー自己紹介をお願いします。
ニャムツォージ・ブルマーと申します。私はモンゴル西部の辺境、ホブド県ボルガン郡で生まれ育ちました。5歳の頃から祖父P.バーストのもとで、家庭内の伝承教育を通してモンゴルの伝統芸能「ビエルゲー」を学び、継承者として育てられました。この経験が、私の人生の歩みを決定づける大きな原点となっています。
小学3年生からは音楽教師Ch.オユントゥルフール先生の弟子となり、モンゴルの伝統楽器「シャンズ」の演奏を学びました。幼い頃から先生と共に数多くの芸術コンクールや大会に積極的に参加し、ビエルゲーの祭典や舞踊大会にも継続して出場してきました。学生時代はとても忙しくも、かけがえのない思い出に満ちた日々でした。
その後、モンゴル国立文化芸術大学を2018年に舞踊教育専攻で卒業し、2022年に芸術学専攻を修了しました。また2018年に「アグサル・ホライ」非政府組織のもとで伝統ビエルゲーの教育センターを設立し、現在もモンゴルの伝統文化を広める活動を続けています。
ーー日本でモンゴル舞踊を教えることになった経緯を教えてください。
私は、日本に来るとき、ただ学ぶだけでなく、モンゴル舞踊を広めたいという思いを持っていました。2023年に東亜国際外国語学院の日本語クラスを修了し、それ以来、日本での生活と学びを続けながら、モンゴル文化を紹介する公演やワークショップ、イベントを行っています。
日本に来て驚いたのは、想像以上に多くのモンゴルの子どもたちが暮らしていることでした。中には日本で生まれ育ち、モンゴル語や文化から遠ざかっている子どももいます。そんな子どもたちを見て、「一人でも多くの子どもに、自分がモンゴル人であることを誇りに思ってもらい、心に残る経験を届けたい」と強く思いました。
その思いから、モンゴルの伝統舞踊やビエルゲーの指導を始め、文化の継承に取り組んでいます。今では多くの熱心な弟子たちと一緒に活動しており、生徒たちの成長や笑顔を見るたびに、「この道を選んでよかった」と実感しています。
ーー踊っている最中、どのような気持ちや感覚になりますか。
踊り始める瞬間、私は一瞬、現実の世界から切り離され、自分の内なる空間に入り込むような感覚になります。その瞬間は、まるで瞑想しているかのような静けさと心地よさに包まれます。たとえ体に痛みがあっても、それを忘れ、心を乱す雑念や不安も自然と消えていきます。
意識はすっきりと整い、身体の動きや呼吸、リズムに完全に集中します。時間の流れさえもゆっくりと感じられ、その空間の中を自由に漂っているような感覚になるのです。
ーー日本での活動中、心に残っているユニークな思い出は何ですか。
日本で活動している間、数えきれないほどの忘れられない出会いがありました。その中でも特に心に残っているのは、84歳の日本人女性とのエピソードです。彼女は私の踊りを見て、「モンゴル舞踊を習ってみたくなった」と自ら教室に足を運んでくれました。以前にもモンゴル舞踊を何度も見たことがあるそうですが、「あなたの踊りは何か違って、新鮮な感動を与えてくれた」と言ってくれたことが、私にとって大きな励みになりました。こうした出会いのたびに、芸術というものは国境や言葉の壁を越えて、人々の心をつなぐ力があるのだと、改めて強く感じます。
ーー踊りを通して人々に伝えたいことはありますか。
私は、踊りは単なる技術ではなく、心を育てる芸術だと考えています。踊りを通して、人は礼儀や所作、正しい姿勢を身につけ、内面の力や忍耐力を養うことができます。リズムや規律、自己管理など、日常生活で役立つ多くの価値あるものも、自然と舞踊から学ぶことができます。
特にモンゴルの「ビエルゲー」の一つひとつの動きには、モンゴルの伝統や文化、歴史や神話が込められているのが素晴らしいと感じます。一見単純に見える動きの背後には、先祖たちの知恵や人生哲学が隠されているのです。
そのため、私は生徒たちに単に動きを教えるだけでなく、その意味や価値を理解してもらい、モンゴル人であることへの誇りや正しい心構え、内なる力を育んでほしいと強く願っています。
ーー読者の皆さんへメッセージはありますか。
すべての読者の皆さまに、丙午(ひのえうま)年の新年のお祝いを申し上げます。皆さまが健康で平穏に過ごし、ご家族や大切な方々と幸せな日々を送り、伝統文化を大切にされることを願っています。
また、私は2026年4月11日に日本で初の単独公演「サラン・デグ」を開催する予定です。本公演では、弟子たちとともに舞い、心と技を一つにしたステージを披露します。
多くの皆さまに会場に足を運んでいただき、モンゴルの伝統芸能の魅力を体感して楽しんでいただければ幸いです。






(ウランバートル市、2026年1月26日、国営モンツァメ通信社)オフナー・フレルスフ大統領は、モンゴル伝統医療の振興に向けた政策を定め、それを実施する大統領令を発出する。これに関連し、Sh.ボルド・モンゴルの医学アカデミーの会長にインタービューを伺った。
ーー大統領がモンゴル伝統医療の振興に関して、政府への指針を示す大統領令を発出しようとしています。この大統領令の発出は、歴史的にどのような意義を持つとお考えですか。
フレルスフ大統領が、伝統医学の発展に向けた大統領令を発出する意向を示していることについて、伝統医学分野の関係者からは歓迎の声が上がっている。
大統領が伝統医学を重視する背景に、いくつかの理由があると見られる。その一つが、過去30年以上にわたる研究の成果である。この研究を通じて、伝統医学はモンゴル民族が築き上げてきた他に類を見ない文化遺産の一つであることが明確になった。
第二の理由として、伝統医学はモンゴルにおいて人的資源を「輸出」している最大級の分野の一つである点が挙げられる。現在、モンゴルの伝統医学の医師や専門家は世界15ヵ国で活躍しており、なかでもポーランドで働き、生活している人材が最も多い。
さらに、COVID-19において、予防対策はもとより、治療や医療サービスの現場で、伝統医学の薬や処方がいかに重要であったかが実証されたと指摘する。
「マナ4」や「ノロブ7」など、数多くの伝統薬はモンゴル国民の間で広く知られ、実生活の中でその有効性が確かめられてきた。こうした潜在力や実績を、大統領は見据えているのではないかと思う。
――モンゴル伝統医学の現在の活用状況を、どのように考えられますか
COVID-19において、伝統医学分野は積極的かつ効果的に対応した。世界保健機関(WHO)は21世紀を『慢性疾患とウイルスの時代』と位置づけているが、その点から見ても、伝統医学が長年培ってきた慢性疾患の治療経験は、極めて価値の高い指針になることは間違いない。
また、現代医学と伝統医学を併用することで、診断や治療の面で相互に補完し合い、一体となって機能する環境が整いつつある。疾病予防の分野においても、伝統医学が持つ資源を最大限に活用していく考えである。
鍼灸、灸療法、瀉血、刺絡、手技療法などは、痛みの緩和や身体機能のバランス調整において特に高い効果を発揮する。こうした治療分野は、モンゴル国内で着実に発展している。
今後の課題としては、医薬品製造を国際的なGMP基準に沿って発展させる必要がある。医師や専門人材は十分に確保されている一方、国内にGMP基準を満たす製薬工場が不足しており、海外で働く医師が自国の伝統薬を現地で正式に使用する際の障壁となっている。
大統領令の枠組みの中で、この問題が政策的に解決されれば、伝統医学分野の発展に大きな弾みがつくでしょう。
インタビューの続きは「モンゴル通信」新聞でお読みください。


(ウランバートル市、2026年1月12日、国営モンツァメ通信社)国際交流機関より日本語専門家として『モンゴル・日本人材開発センター』に勤務されている富岡史子先生に、モンゴルでの生活や日本語学習者の姿勢、両国の魅力についてインタビューを行った。
ーー自己紹介のほどお願いします。
富岡史子と言います。2025年の3月にモンゴルに来ました。モンゴルは二度目です。
ーーモンゴルに来る前の職業経験について簡単に教えてください。
1991年から日本語教師をしています。それで、今回もモンゴル日本人材開発センターに国際交流基金から日本語専門家として派遣されました。
ーーモンゴルに来る前、どんなイメージを持っていましたか。
モンゴルは今回は2回目で、前回は2010年〜2012年にJICAのシニアボランティアとして来ていました。その前に持っていたイメージとしては、とにかく広い草原です。本当に広い草原の国というイメージでした。実際に来てみて、それ以外はあまり具体的なイメージを持っていなかったので、「ああ、こういう感じなんだな」と思いました。特に大きなイメージとのギャップはなかったです。
ーーモンゴルに来ることになったきっかけを教えてください。
先ほども言いましたように、JICAのシニアボランティアで、日本語を教える、日本語教育をサポートするという募集があったので、それに応募しました。
――モンゴル以外の国もあったと思いますが。
はい、そうです。そのときは日本で、海外の方に日本語を教える日本語教師の仕事をしていました。色々な国から来る人に出会う中で、いつかは私も、その学習者の人たちが、どういうところで日本語を勉強して、ここに来ているのかを知りたいという思いを持ちました。ただ、子育てもありましたので実現するのはずっと先のことだと思っていました。末っ子が大学に行くタイミングで、JICAの募集を知りました。試しに応募してみたら合格して、特にモンゴルを希望したわけではありませんが、JICAから「行きなさい」ということでモンゴルに来ました。
――運命ですね。
そうですね。
ーー 海外経験ははじめてでしたか。
いいえ。アメリカに1年いました。かなり前ですが、1986年です。なので、海外で生活するのは2度目でした。旅行とかは結構行っていましたけど。
ーー 日常生活で困ったことや大変だったことはありましたか。
皆さんが親切なので、あまり困ったという記憶が、今思い出してもあまりないです。あったのかな。すぐ忘れてしまいます。
――なかったということにしましょう。
ーー食文化についてどう感じていますか?好きなモンゴル料理はありますか。
実は肉料理はあまり好きではありません。モンゴルは主食がお肉ですよね。ただ、自炊をするので、長い間主婦ですし、食材さえあればあまり困らず、日本風にしてしまいます。
ーー一番最初に来たのは10年以上前ですが、そのときは日本の食材はどうでしたか。
そうですね。思い出しました。15年前は食材に困りました。日本的な料理を作るには、食材があまり揃っていなかったですね。日本で使うような野菜も、高級なお店に行けばありましたが、日本だったら売られていないような、時間が経ったものが高い値段で売られていたりして、ちょっと買うのをためらう感じでした。
――今はどうですか。
今は食材も豊富になりましたし、本当に困らないですね。日本にいるような気持ちです。
ーーモンゴルの気候や自然環境についての印象を教えてください。
(モンゴルの寒さは)油断はできないんですけど、最初にJICAの面接で、「モンゴルはどうですか」と聞かれたときに、「モンゴルは寒そうだから、ちょっと行くのは…」と言ったんです。
どうしてかというと、足がしもやけになるので、寒いところは無理だと思います、と言いました。そのときは「そうですか」と言われたんですが、ふたを開けたらモンゴルに決まっていました。
困ったなと思っていたんですけど、お部屋がとても暖かいので、モンゴルに滞在した2年間は、しもやけにならなかったんですよね。だから、外が寒いというマイナスの印象よりも、「モンゴルにいるとしもやけにならない」という良い印象が強いです。
ーーモンゴル人との交流についてお願いします。モンゴル人の特徴や関わり方など。
最初に来たときは、顔は本当に似ていると思いました。日本語の先生として会ったときに、(学生から)「私の小学校の校長先生に似ています」と言われて、私も結構モンゴル的な顔なのかなと思いました。でも、性格は正反対だなと思うことがよくありました。いい意味ですごく強いという印象なんです。はっきりとものを言うとか。でも、強いんだけど、優しくて、ユーモアがある、そんなイメージを持ちました。
――先生は困らなかったですね。
そうですね。私は自分と違う人が好きというか、興味があるというか、あまり違うことにストレスを感じないタイプなんだと思います。
ーー当時の日本語学習者と現在の学習者に違いはありますか。
前回はモンゴル国立教育大学で教えていて、今回はモンゴル日本人材開発センターなので、学習者の層も形態も違いますから、単純に比べることはできませんが、若者はだいぶ変わったという印象があります。よりスマートになりましたね、いろいろな意味で。眼鏡をかけている人も多くなったように思います。
ただ、前回も教育大学の学生さんは皆素直で意欲がありましたし、その点はあまり変わってないように思います。
モンゴル人の学生で一番いいと思うのは、先生に対する尊敬の気持ちを持っているところです。そこは本当にいいと思います。今教えている学生さんたちもとても礼儀正しいですね。

ーーモンゴルの学生の日本語学習への姿勢についてどう感じますか。
私が2回もモンゴルに来た理由の一つは、モンゴルの日本語教育に関心があるからです。前回来たとき、地方で日本語を勉強している子どもたちに会いました。アルバイヘールのメルゲド学校の子どもたちでしたが、目をキラキラさせながら日本語を勉強している姿を見て、この気持ちをつぶさない日本語教育であってほしいと思いました。
65歳で日本の大学を定年退職したとき、最後に日本語教師として何ができるか考え、モンゴルであの子どもたちのために何かできないかと思い、この募集に応募しました。
モンゴルは人口は少ないですが、10万人あたりの日本語学習者の割合は世界一です。日本語はモンゴルの人にとって比較的習得しやすい言語だと思いますし、日本語が分る人が多いということは、人的資源として世界に誇れる強みだと思います。
――学習者へのアドバイスはありますか。
はっきりした目標設定ができると効率よく勉強を進めることができると思います。
ーーモンゴルの魅力について教えてください。
人ですかね。強さ、優しさ、ユーモア。日本人にとってとても良いパートナーになれると思います。考えすぎて動けない日本人と、さっと動けるモンゴルの人。日本人の丁寧さと組み合わされば、強力なパートナーシップになると思います。
ーー先生にとっての日本の魅力を教えてください。
私の中では、日本はとてもきれいな国です。整える力がある国だと思います。ただ、そこで止まってしまうところが、少し欠点かもしれません。
ーー 次世代へのワーク・ライフバランスのアドバイスをお願いします。
正直、ワーク・ライフバランスはあまり考えてきませんでした。4人の子どもを育てているときも大変でしたが楽しかったですし、今こうしてモンゴルで日本語を教えられていることも楽しいです。
結局その時できることをちょっと頑張って来たかなという気がします。なので、アドバイスとしては、今できることを無駄にしないでほしいということです。できないことを数えるのではなく、できることで楽しみながら道を開いていってほしいと思います。

ーーモンゴルでの生活や仕事を通して、自分自身の変化はありましたか。
もう年なので、大きくは変わりませんが、職場で何を言っているのかは分からないんですが、皆さんが楽しそうに笑いながらモンゴル語で話しているのをBGMに仕事をすると、とても捗ります。この明るさの影響は、毎日少なからず受けていると思います。
ーーこれからの志についてお願いします。
まず、この2年間でできることを精一杯したいと思います。来年の3月までの予定なので、病気をせず、最後までしっかり頑張りたいですね。
モンゴルの皆さんがすでにある日本語力を生かして、ぜひ自分の武器にして社会的にエンパワメントしていけるようにサポートできたらと思っています。
今年、豊岡市立日本・モンゴル民族博物館は開館30周年を迎えた。これを機に、モンゴル豊岡シルクロード友好協会のS.デンベレル会長に話を伺った。
ーーモンゴルの伝統文化や風習を紹介する博物館が日本にあることに、感慨を覚えます。この博物館は、どなたの発案で、どのような経緯を経て設立されたのでしょうか。
兵庫県但東町は1985年以降、大阪外国語大学(現・大阪大学)モンゴル語学科の小貫雅男 教授や今岡良子氏の支援を受け、バヤンホンゴル県ボグド郡をはじめ、「ゴビ」プロジェクト、ウランバートル市内中学校などと連携した交流活動を継続してきました。
1994年に、但東町で「森と砂漠を結ぶ国際シンポジウム」が開催され、モンゴル側から40人以上の関係者が招聘されました。
このシンポジウムの期間中、金津匡伸さん(故人)に対し、モンゴル人の生活文化に関するコレクションを展示してほしいとの要望が寄せられました。
金津さんは1990年代初頭、在モンゴル日本大使館勤務時代に民族学への関心を深め、モンゴル各地や内モンゴルで数多くの民族学資料を収集しており、その展示内容は専門家からも高い評価を受けました。
当時の町長、福田芳郎氏(今年105歳)は、町に博物館または資料館を設けたいという夢を抱いていました。そこで金津さんに対し、「もしコレクションを町に寄贈していただければ、博物館 を建設し、広く一般に公開したい」と提案しました。金津さんは、貴重な資料を個人で保管するよりも公に活用することが望ましいと判断し、全コレクションを但東町に寄贈されたのです。
その後、福田氏は博物館設立に向け、行政手続きや建設用地の確保、資金調達といった数々の課題を乗り越え、1995年12月に建物の基礎工事が始まりました。建設期間中、金津さんは展示構成や配置など細部にまで関わり、早朝から深夜まで作業を続けられました。その結果、広々とした空間を生かした美しい展示が実現し、博物館は1996年11月に開館しました。
私は、福田芳郎氏の夢と尽力、金津匡伸氏の貴重なコレクション、そしてモンゴルの民主化と市場経済への移行を支援してきた日本の人々の協力が重なり合うことで、この博物館が誕生したのだと考えています。
ーーこの30年間で多くの人が来館してきたと思いますが、年間ではどの程度の方が博物館を訪れているのでしょうか。
但東町は森林に囲まれた山あいの谷や盆地に位置する、人口の少ない町です。将来的な地域の発展を見据え、2005年に周辺四町とともに豊岡市と合弁しました。それ以降、博物館は市の予算によって運営されています。
2023年4月から2024年3月まで来館者数は累計5675人に上ります。来館者数はコロナ禍で一時的に減少しましたが、現在は増加傾向にあります。
ーー来館者が特に関心を持つ展示は何ですか。
展示品のおよそ2割は、古代日本の生活文化を紹介する資料です。これに加え、モンゴルの歴史や文化、暮らし、仏教の発展をテーマとした展示を行っています。館内で、モンゴルの伝統衣装「デール」の試着や、羊のくるぶしの骨を使った伝統遊び「シャガイ」の体験も可能で、体験型展示は特に好評です。
また、年に2〜3回、定期的に特別展を開催しています。これまでに「現代に受け継がれるモンゴルの工芸」、D.オルトナサン画家の作品展、切り絵作家S.テルボラム氏の作品展などを実施してきました。2025年11月に、馬頭琴馬頭をテーマにしたコレクション展も開催しました。
来館者からは、「館内のゲルの中に座り、モンゴルについて語り合う体験が特に印象に残った」といった声も多く寄せられています。
ーーモンゴルを旅行しようとする日本人は、事前にこの博物館を訪れると聞いたことがありますが。
実際に、モンゴルへの渡航を予定している人が事前学習の場として立ち寄り、現地について質問したり、関心を深めたりするケースは少なくありません。この博物館は、単なる観光施設ではなく、モンゴルの歴史や文化、暮らし、風習を総合的に紹介する、いわば文化センターのような役割を果たしています。
昨年から、モンゴル史を専門に博士課程を終了した水谷東洋研究者が勤務しており、来館者に対して、より専門的で正確な情報を提供できる体制も整いました。
ーー周辺を旅行するモンゴル人にとっても、立ち寄る価値のある場所だと思いますが、モンゴル側からの支援はどの程度あるのでしょうか。
現在、日本には約2万人のモンゴル人が住んでいるとされています。ただ、この博物館は関西地域にあり、立地的にややアクセスが不便なため、交通費などの負担を考えると気軽に訪れるのは簡単ではありません。
それでも、日本国内で唯一のモンゴル専門博物館であり、モンゴルの人々にとっても、自国の文化や歴史を日本でどのように紹介しているのかを知る貴重な場所です。機会があれば、ぜひ一度足を運んでほしいと考えています。
ーー近年、生徒間交流を拡大していると伺いましたが、これまでの取り組みと今後の展望について教えてください。
博物館の開館以来、モンゴル側からは長期・短期の研修生の受け入れや生徒間交流などが行われ、これまでに子どもたちを中心とするグループを12回にわたり豊岡市で受け入れてきました。日本側からも同数の代表団がモンゴルを訪問し、現地の中学校での交流や遊牧民の生活体験などを重ねてきました。こうした交流は、コロナ禍で一時中断を余儀なくされました。
昨年、豊岡市に「とよおか・モンゴル友好協会」が設立され、会長には、元但東町長の息子で豊岡市議会議員を20年間務めた福田嗣久氏が就任しています。また、昨年就任した門間雄司豊岡市長も、市として博物館の運営や学生交流を支援していく意向を示しておられます。今後は、まず学生の相互派遣による交流が再開されることを期待しています。
— インタビューありがとうございました。






写真は日本・モンゴル民族博物館の公式サイトより
(ウランバートル市、2025年12月26日、国営モンツァメ通信社)広大な自然と温かい人々に惹かれ、35年前に初めてモンゴルを訪れた日本人観光のプロ、安達要吉氏。夏だけでなく、冬ならではの感動体験や教育支援にまで思いを巡らせる氏の視点から、モンゴルの魅力を伺った。
ーーモンゴルで事業を始められたきっかけを教えてください。
モンゴルとの関わりは、今から35年前にさかのぼります。当時、在モンゴル日本大使館から「モンゴルの観光開発に協力してほしい」という依頼をいただいたことがきっかけでした。
初めてモンゴルを訪れたとき、私はこの国の広大な自然に心を打たれました。そして、遊牧民の人々の優しさや親切さ、温かいホスピタリティに強い感銘を受けたんです。だからこそ、この素晴らしい国と人々のことを、日本のみなさんにもっと知ってほしい、それが事業を始める上での大きな動機になりました。当時のモンゴルには、いまのような観光資源はほとんどありませんでした。世界遺産も少なく、食べ物の選択肢も限られ、民主化のころはジャガイモ、ニンジン、タマネギくらいしか手に入りませんでした。ホテルもバヤンゴルホテルやウランバートルホテルがあるだけで、チンギスハーンホテルは建設中でした。つまり「観光国としての設備」は何もなかったわけです。それでも私は、モンゴルにはそれらをはるかに上回る価値があると感じました。人の温かさや豊かさ、そして広大な大地が秘める力は、どのような観光資源にも勝る魅力だと確信していました。
今、こうしてウランバートルに高層ビルが立ち並び、人々の暮らしが豊かになっていく様子を見ると、「本当に発展したなぁ」としみじみ思いますよ。
ーー12月3日、日馬富士奨学金基金への寄付に関する覚書に署名されましたが、モンゴルの若い世代の教育支援に関心を持たれた背景やその思いについてお聞かせください。
会社を経営する上で、私は「世界に貢献できる企業でありたい」と常々考えてきました。利益が出れば、その利益を社会に還元する取り組みをいくつも実現したい。そう思い、その理念を実行できる会社をつくったのが、今の会社です。また、78歳になり、人生の終盤に差し掛かる今だからこそ、少しでも社会の役に立つことをしたいという思いが強くなりました。
モンゴルの若い方々には、もっと日本を好きになってほしいという願いもあります。日本への留学生が増えていると聞き、「新モンゴル日馬富士学園」の皆さんとも協力し、そうした教育的な取り組みを広げていければと考えています。
さらに、現在政治家として活躍している新モンゴル学園のJ.ガルバドラフ先生は私の古くからの友人です。彼の学校運営や教育への情熱を長年そばで見てきて、私も教育分野で何か力になれたらと思い続けてきました。こうした縁や思いが重なり、日馬富士奨学金基金への支援につながったのです。

ーー日本の会社として、モンゴル旅行で特に強みを発揮できるポイントは何でしょうか。
私たちの強みは、「日本人が求める旅行の感性やサービスを、モンゴルで実現できること」 にあります。
日本に行かれた方なら、だれもが日本のおもてなしに気づくはずです。店の人が親切で、言われる前に必要なことをしてくれる。あの「日本的ホスピタリティ」を、ここモンゴルでも提供したいと考えてきました。そのために、当社のスタッフはずっと私と一緒に働いてきた、20年来の仲間ばかりです。私の考え方もよく理解してくれていて、ほぼ全員が年に1回、あるいは2回、東京の本社で研修を受けます。英語を学び、日本の接客やサービスのあり方を実際に体験し、モンゴルに戻ってから日本のお客様にその感覚をそのまま届ける。それが、当社ならではの大きな特徴だと思います。もう一つ大事にしているのは「時間を守ること」です。モンゴルで、遊牧民文化もあって時間の感覚が「午前か午後か」という大らかさもありますが、私はそんなモンゴルの人たちの温かさを大好きだと感じながら、35年間仕事を続けてきました。
ーーお客様から寄せられるご感想や評価の中で、特に印象に残っているものはありますか。
お客様が一番感動されるのは、やはりモンゴルの「自然の大きさ」です。どこまでも続く広大な景色や手が届きそうなほど美しい星空。そうした大自然に心を揺さぶられて帰国される方が多いですね。
しかし、それ以上に強く印象に残るのが「人の温かさ」です。遊牧民のゲルを訪ねると、初めて会ったばかりなのに「うちの馬乳酒は一番おいしいから飲んでいきなさい」「馬肉の煮込みを作ったから食べていきなさい」と驚くほど自然に、ためらいなく勧めてくれます。
そうした素朴でまっすぐな親切に触れ、「こんなに心の豊かな人たちがいるのか」と深く感動されるお客様が本当に多いんです。
ーーお客様が一番感動する、モンゴルならではの瞬間は何でしょうか。
以前は、星空の美しさや広大な景色に感動されるお客様が多かったですね。しかし最近では、-40度の極寒の中で体験する「初日の出」が大きな感動ポイントになっています。日常ではあまり感動しないモンゴル人でも、日本人のお客様は心から感動されます。かつては寒さのため、冬に訪れるお客様はほとんどいませんでした。夏だけが観光シーズンでしたが、当社では「モンゴルでしか味わえない新しい感動体験を冬にも提供しよう」と考え、冬季ツアーを企画しました。その結果、冬に訪れるお客様は200名に上るほどになり、今では冬も忙しい状況です。
3年前に会社を立ち上げた際はコロナ禍でお客様が来られず苦労しました。しかし、「冬も仕事を作ろう」と若いスタッフたちに呼びかけ、冬季ツアーの企画を実行しました。その際に、98歳のおばあちゃん、その娘さんが70代、孫さんが50代という三世代のお客様が参加してくださり、非常に印象的でした。
東京の本社の社員も旅行会社を回りながら「こういう冬のツアーがあります」と紹介し、パンフレットを配布します。今年も楽しみにして来てくださるお客様がいます。
ーー社長が一番好きなモンゴルの風景や場所を教えてください。
私が特に好きなのは、ホヨルザガル・キャンプ場からの景色です。広大な平原の向こうに山々がそびえ、朝日が昇る瞬間の緑と大地のコントラストは、本当に美しくて心が洗われるようです。もう一つは、アルタンゴビのビールとチンギスハーン・ウォッカですね(笑)。モンゴルの豊かな自然と文化を味わえる場所や飲み物は、私にとって特別な楽しみでもあります。
ーー安全面の管理やサポート体制、特に力を入れている点について教えてください。
安全面は、当社にとって何よりも重要です。実は当社では、日本の保険会社と契約し、1000万円の保険に加入しています。万が一事故でお客様が亡くなられた場合も、日本の保険会社が遺族に必要な補償を行う仕組みです。こうした手厚い保険制度を整えている会社は、他にはほとんどないと思います。また、冬季ツアーでも安全を徹底しています。当社のバスはすべて昨年、新品のスタッドレスタイヤに入れ替えました。ドライバーに、シートベルトの着用や2時間ごとの休憩、健康診断の受診など、安全対策を毎年セミナーで指導します。さらに、モンゴル日本センターと協力してガイド講習会を実施し、ガイドの知識や対応力も強化しています。
ーー最後に、読者や旅行を検討している方々に向けて、ぜひ伝えたいメッセージはありますか。
モンゴルは夏の観光だけではなく、冬ならではの体験も魅力です。四季折々の自然や文化を、安全に楽しんでいただきたいと思います。
ーーインタビューありがとうございました。

(ウランバートル市、2025年12月4日、国営モンツァメ通信社)国際医療福祉大学卒のモンゴル人初の理学療法士バトチメグ・テムーレンさんに、日本で留学経験、貴重な思い出、これからの志について話を伺った。
――自己紹介のほどお願いします。
バトチメグ・テムーレンと申します。小学校3年生から卒業まで、日本に住んでいた。来日した理由は、母が博士号を取得するためである。
――第一言語は日本語ですね。
そうである。小学校一年生をモンゴルで終える前に、来日したため、モンゴル語は話せるが読み書きできないのが問題になっていた。
――日本へ留学したきっかけは何でしょうか。
日本語ができるし、日本に馴染みがある。自分の本当にやりたいことを見つけて、将来の仕事に直結する勉強をしたかったからである。
――なぜ、理学療法士を選んだのですか。
千葉県の国際医療福祉大学を卒業し理学療法士になった。理学療法士というのは、リハビリ専門職種である。理学療法士の中でモンゴル人でおそらくはじめてである。小さい頃からバスケやバレーなどスポーツが大好きで、高校の時に「スポーツと医療、両方に関われる仕事はないか」と考えた時に理学療法士を知った。当時のモンゴルではほとんど知られていない職業だったため、「これを勉強して母国に持ち帰りたい」と思ったのがきっかけである。
――日本留学で得たものは何でしょうか。
一番みについたモノは、患者さんとの接し方である。理学療法士という職業の特徴として働いているときに、患者さんと結構近い。そのときに、皆さんとどうやって接していくか。たぶん、モンゴルにはまだ進化していない患者さんと接し方、道徳についてよく学んだ。具体的には、絶対、患者さんの目線の下にいること。目線より上であれば態度の大きくなってしまう。
――モンゴルで働いてみていかがですか。
最初に感じたのは、やはり、リハビリというものがあまり馴染みがなかった。そんな中でどうやって人々にリハビリに関する理解を広めようか問題であった。
――この3年間を振り返るとどう感じますか。
一番最初の頃より、運動へ抵抗がなくなっているように感じる。その原因として一番の理由は、モンゴルの年齢層が低く若い人たち多い。その若者は運動に興味があったり、普段からやっているので、その影響もあるかと思う。
――留学中に行き詰った経験はりますか。
大学1年の解剖学などの専門用語が本当に厳しかった。子ども時代に住んでいたとはいえ、医療の日本語は別次元である。とにかく毎日覚えるしかなく、必死で乗り越えた。
――次世代へのアドバイスをお願いします。
一番目、けっして頭がよかったわけでない。それでもできたのは、毎日ちょっとでも勉強することは大事である。たとえ、一日だけでも休もうとしたらだめである。ちょっとだけのことでも毎日やる。二つ目は、自分の好きなことをやる。自分がやりたい職業、将来も続くなので、好きなことを追求する。
――心に残っている貴重な思いで何でしょうか。
大学の先生である。自分がその大学発初のモンゴル人留学生であった。勉強も生活も人生相談もすべて受けて止めていただいた。あの先生がいなければ今の自分はない。

――日本人とモンゴル人の違いについて教えてください。
モンゴル人は好き嫌いがはっきりしている。この点は違うと思う。
――日本人と上手く接するコツありますか。
相手が言いたいことをしっかりと考えるべきある。例えば、日本人は日常的に人といい接し方をしないといけないということを小さい頃から身についている。そのため、本当に言いたいことを言えない人もいたり、言いたくないことを言ってしまう人もいたりするので、本当に言いたいことを聞くのが大事であると思う。
――これからの志についてお願いします。
職業である理学療法士もリハビルもモンゴルでより広めていきたい。今働いている職場で、短下肢装具というものをひろめていきたい。モンゴルにはまだなかったので、日本とは少しやり方は違うが、その人の足をスキャンして3D上で出して、その足の形にあわせるようにこのデザインを出している。
――日本の皆様へ一言をお願いします。
日本は幼少期と大学時代、2度にわたり日本にお世話になった。特に「人との接し方」、「謙虚さ」、「相手を思いやる心」は、日本と日本人から学んだ最大の財産である。本当にありがたいと思っている。これからもモンゴルと日本の架け橋になれよう頑張る。
――ありがとうございました。
(ウランバートル市、2025年11月27日、国営モンツァメ通信社)モンゴル、そして世界史に名を刻んだ偉大なチンギス・ハーンの名を冠した国立博物館を巡る旅を紹介したい。今回、同テーマを取り上げるのは、3年前の2022年に、モンゴル史に黄金の文字で刻まれる大規模なプロジェクトを、モンゴル国民自らの力で実現させたためである。その結実が、ほかにもない「チンギス・ハーン国立博物館」の建設である。それでは、この特別な博物館についてより深く知るため、サンピルドンドブ・チョローン館長兼モンゴル科学技術功労者兼歴史学者に話を伺った。
ーー世界に、歴代の帝国の指導者をテーマにした有名な博物館が数多く存在します。その中で、チンギス・ハーン国立博物館は、どのような点で特に際立っているのでしょうか。また、チンギス・ハーンの歴史的影響力を、他の帝国の指導者らと比較すると、どのような興味深い結論が導き出せると考えられますか。
「チンギス・ハーン」国立博物館の設立は、6年前、オフナー・フレルスフ大統領が当時首相を務めていた際に決定された。この決定は、チンギス・ハーンの名声を世界に広め、啓蒙の殿堂を設けるという歴史的な一歩でもあった。
世界に、名を轟かせ、歴史に足跡を残した王や貴族は数多く存在する。しかし、チンギス・ハーンのように、人類に大きな影響を与えた王はごくわずかである。特に過去1000年間で、際立った偉人の一人であると言えるでしょう。
人類の王国国家が最も活発であった時代から、すでに2000年の歳月が流れた。そのうちの1000年間、偉大なチンギス・ハーンの名声のもとに語り継がれてきた。
偉大な王や貴族の博物館は、大きく分けて二種類ある。一つは、偉大な王や貴族自身がかつて居住していた宮殿を博物館として公開したもので、もう一つは、王や貴族の遺物や記念品を収蔵し、その功績をたたえるために設立された博物館である。
チンギス・ハーンの名を冠したこの博物館は、モンゴル帝国の歴史を伝える博物館にあたる。その展示内容は、大きく三つに分かれている。
第一に、チンギス・ハーンとその祖先である匈奴時代の歴史。第二に、チンギス・ハーンの子孫とモンゴル帝国の時代の歴史。第三に、20世紀初頭、チンギス・ハーンの血を引く人々によって築かれた歴史である。
私たちは70年間、チンギス・ハーンの足跡について語ることが制限されていた。1962年にチンギス・ハーン生誕800周年を祝った際、多くの人々が不当な扱いを受けただけでなく、チンギス・ハーンの歴史を特別に語ることや偉大なハーンを敬う権利も認められていなかった。ところが、1996年に「ワシントン・ポスト」はチンギス・ハーンを「Man of the Millennium(千年の人)」と称賛した。
そのため、チンギス・ハーンの故国を訪れる誰もが、チンギス・ハーンの歴史を学びたいという願望や知ることの必要性を感じることであろう。その歴史を学ぶ上で最も重要なのは、チンギス・ハーンが生まれ育った聖地と文化遺産である。この博物館は、モンゴル国政府が自らの資金で建設した。モンゴルの学者らの理念と知識を土台に、モンゴルの建築家や技術者の知恵、国内外の支援者の協力、そしてモンゴルの芸術家らの知見と創造力を結集して築かれた。
また、世界的なパンデミックという困難な状況の中で完成したこの博物館は、過去30年間におけるモンゴルの文化分野で最大規模の事業のひとつとなった。

天皇陛下が2025年7月7日、「チンギス・ハーン国立博物館」をご訪問された際のご様子
――モンゴル帝国は当時、世界人口のどれほどを支配していたのでしょうか。また、それは世界史上どれほど特別な出来事だったのでしょうか。
人類はモンゴルの歴史、とくにチンギス・ハーンの歴史を様々な視点で見てきた。一方はチンギス・ハーンに征服された側の視点があるし、他方はモンゴル側から「我らがチンギス・ハーン」として見る視点もある。
しかし近年は、人類全体、特に世界の優れた研究者らの学術的成果によって、チンギス・ハーンの歴史を捉える視点が変わってきた。チンギス・ハーンは単なる征服者ではなく、ユーラシアに大規模な交流を生み出した人物として見られるようになっている。当時存在していたのはユーラシア大陸だけで、アメリカ大陸やオーストラリア大陸はまだ「発見」されておらず、アフリカにも強大な帝国はなかった。従って、チンギス・ハーンの帝国の成立により、ヨーロッパとアジアの間に大規模な交流が生まれ、特に経済・産業面での活発な往来が実現した。さらに、最大の交易路であったシルクロードが安全に保たれるようになったことも大きな功績である。数世紀にわたって対立の原因となってきた宗教に対し、自由な信仰を認めた。かつてアジアとヨーロッパの人々は、お互いを遠く隔たった存在だと思っていた。しかし、チンギス・ハーンの時代に、大陸間のつながりや文化的影響が生まれた。このように、チンギス・ハーンは人類の歴史において、数多くの驚くべき業績を残した人物である。今日の人類がなお解決できず、実現を夢見ている多くの課題は、13世紀のモンゴル帝国によってすでに克服されていた。そのため、ジャック・ウェザーフォードは著書『Genghis Khan and the Making of the Modern World』の中で、チンギス・ハーンを現代世界の形成に大きく寄与した人物として描いている。
現代の私たちは、戦争の問題や経済の自由化、宗教の自由といった多くの課題を十分に解決できていない。しかし、モンゴルの偉大なハーンは、13世紀にこれらの課題をすでに解決していた。
このような歴史的事実を踏まえ、チンギス・ハーンやモンゴルの歴史に対する世界の見方も少しずつ変わりつつある。そして、この博物館は、そのような新しい視点や理念を広めるための重要な存在として設立されたのである。
インタビューの続きは「モンゴル通信」新聞でご覧ください。

モンゴルの偉大なダシドルジ・ナツァグドルジ作家の誕生日である11月17日に、岡田和行東京外国語大学名誉教授兼モンゴル文学研究者が『アルタン・ハラーツァイ』モンゴル文学研究・分析書によりナツァグドルジ記念賞を受賞した。その翌日、岡田氏はモンゴル国立大学で学生や研究者を対象に、モンゴル現代文学をテーマとした講演会を行い、インタビューに応じた。
ーーナツァグドルジ記念賞の受賞、誠におめでとうございます。以前、「もしモンゴルに来ていなかったら、日本でサラリーマンになっていた」とお話しをされましたが、長年モンゴルで過ごされた経験は、先生の人生や研究にどのような影響を与えましたか。
モンゴルに来る前は、正直なところ、モンゴルを専門に研究しようという意識はあまりありませんでした。留学は2年間でしたが、最初は生活が大変で、早く帰りたいと思うこともありました。しかし、学生寮でモンゴル人学生と同室になり、授業を受けるうちに次第に興味が湧いてきました。食事や寒さで生活は楽ではありませんでしたが、現地の人々と関係が深まるにつれ、様々なことに関心が生まれました。あの留学経験が、現在の研究者としての道、そしてモンゴル現代文学を専門にする選択に大きな影響を与えました。
ーーモンゴル文学や思想をご研究されている外国人研究者として、日本と比べた場合、モンゴル文化のどの点が特に際立っており、またどの点に共通性を感じられますか。
文学作品、特に小説を読むと、日本とは大きく異なる点が多々あります。例えば生活様式は大きく異なりますし、現在のウランバートルの都市生活には東京と変わらない部分もありますが、地方の遊牧民の暮らしを描いた作品には、細やかな描写が多く登場します。そのため、理解が難しい場面もあります。
しかし、人を愛する、憎むといった人間の基本的な感情が共通しており、その普遍的な部分が非常に理解しやすいのです。環境や風俗が違っても、人間の内面は共有できます。
文学というよりも、日常生活で戸惑ったことの方が多かったですね。例えばモンゴルでは、後ろから足を踏まれたときに、なぜか握手をする習慣があります。最初はまったく意味が分かりませんでした。こうした日常の文化的差異には驚かされることが多かったです。
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(ウランバートル市、2025年11月10日、国営モンツァメ通信社)
毎年10月29日に恒例で開催される「ビエルゲー・ナイト」は、モンゴルの伝統と 現代の活気が調和する温かみあふれるイベントである。今年も8歳~80歳までの 幅広い世代が集い、会場はデール姿の参加者たちの笑顔と熱気で活気に包まれて いた。遊牧民の暮らしや精神を体現する伝統舞踊「ビエルゲー」が、人々をつな ぎ、モンゴル人としての誇りを呼び覚ますのである。今回は、ビエルゲー文化の 魅力を国内外に広める活動を行っている「オグトルグイン・ビエルゲー」教育セ ンターの創設者であるSh.ノミンエルデネ氏に話を伺った。
ーービエルゲーとどのよ うに関わりましたか。
私は本職がバレエダンサーで、その後、振付も 学んだ。「オグトルグイ ン・ビエルゲー」という 教育センターを設立し て、今年で7年目を迎え る。私の舞踊の基礎はモ ンゴル舞踊で、両親が幼 いころから学ばせてくれ た。専門はクラシックバレエであったが、モンゴル舞踊の意味を学ぶほ ど、自分の文化に強く惹 かれるようになった。人間には生まれてきた使命や 創造の課題があると思う が、私にとってそれがビ エルゲーなのかもしれない。
ーービエルゲーは他の舞 踊とどう違いますか。
ビエルゲーは単なる動き ではない。モンゴル人の 身体、魂、意識の統合を 表す舞踊である。ビエル ゲーをすることで、ヨガ やフィットネス、瞑想を したかのような心身への 効果が得られる。例えば ヨガは呼吸が重要である が、ビエルゲーは動きそ のものが自然に 呼吸を整え、 正しいリズム へ導いてくれ る。身体の骨や筋肉 をバランスよく使い、 内なるエネルギーや精 神面にも作用する。現 代社会で、生活や仕事の 影響で体が緊張しやすい が、ビエルゲーはそれを 鎮め、心身の中心を保つことを教えてくれる。 基本姿勢である「ヤゾ ゴール姿勢」は大地と つながり、芯を象徴す る。

ーー「オグトルグイン・ ビエルゲー」を設立した 目的は何ですか。
主な目的は伝統文化の 復興である。例えばモ ンゴル人は「ジョー ライ・ゲルデン」と いう歌を聞くと心が 高揚するが、体をど のように動かせばよ いか分からないこと がある。私たちはその 感覚をビエルゲーを通 して表現し、復活させ る。教育プログラムは 連続的に行われ、基礎 を教えれば、受講者自身 が自然に美しく舞えるようになる。
ーー初回の「ビエルゲ ー・ナイト」はどのよう に開催されましたか。
最初は約50人が来てくれたらいいなと思ってい たが、実際には約10人が来た。「私」と「ビエルゲ ー」を大切に思う人々の ために公演を行ったこと が、今も鮮明に思い出される。当時は毎月のイベ ントとして開催してい た。今年は7周年を記念し てフェスティバル形式で 開催し、約400人が集まった。これは私たちの長年の努力の成果である。
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(ウランバートル市、2025年10月16日、国営モンツァメ通信社)DataReportalが発表した2025年の調査によると、モンゴルではおよそ260万人がソーシャルメディアを利用しており、これは全人口の約74.4%にあたるという。数字の上からも、ソーシャルメディアがいかに人々の日常生活に深く浸透しているかがうかがえる。
情報収集や交流、自己表現の手段として欠かせない存在となった一方で、ソーシャルメディアの過度な利用が心の健康に影響を及ぼすケースも少なくない。
こうした現状を踏まえ、今回はモンゴル国立大学心理学科長であり、博士・教授のムンフナサン・デレゲルジャブ氏に、ソーシャルメディア利用とメンタルヘルスの関係について話を伺った。
ーーソーシャルメディアや情報の流れは、私たちや社会の心理にどのような影響を与えているのでしょうか。
現在、マスメディアは社会心理に大きな影響を及ぼす主要な手段となっている。モンゴルで以前はテレビがその中心的存在であったが、今はソーシャルメディアがその役割を担うようになった。FacebookやInstagram、などのSNSは、時間や場所を問わず、短時間で情報を見たり共有したりできるため、テレビやラジオ、新聞といった従来型メディアよりもはるかに強い訴求力を持っている。
現代において、ソーシャルメディアが社会全体の心理に影響を与え、時には“世論”そのものを左右するほどの力を持つと言っても過言ではない。
ーー近年、「情報過多疲労症」という言葉が聞かれるようになった。情報社会に生きる私たちは、どのように心の健康を守るべきなのでしょうか。
現代の人々は、自ら望まなくても絶えず情報の波にさらされている。興味のない内容であっても、次々と流れてくるニュースや投稿を目にし、つい読んでしまう。脳は視覚や聴覚を通じて入ってくるあらゆる情報を処理しようとするが、その量が膨大なため、知らず知らずのうちに疲弊してしまう。
さらに、SNS上のインフルエンサーの発信や広告は、無意識のうちに私たちの思考や選択に影響を与える。自分の意思とは関係なく多様な情報を受け入れ続けることは、ストレスや不安、精神的な疲労の原因になりかねない。
こうした状況の中で心を守るには、“情報との距離の取り方”を意識することが重要である。情報に触れる時間をあらかじめ区切り、本当に必要な情報だけを選んで取り入れる――こうした習慣が、心の健康を保つ第一歩になるでしょう。
ーーネガティブなニュースや情報に触れたとき、個人としてどのように向き合い、どんな行動を取るべきなのでしょうか。
これは非常に難しい課題である。私たちは見たくないと思っていても、有料広告や“トロール”と呼ばれる偽アカウントなどが拡散する情報を、避けることなく目にしてしまう。こうした膨大な情報を、個人が選別もフィルターもかけずに受け入れてしまうこと自体が、問題の根本にあると言えるでしょう。そのため、まず必要なのは“デジタル・リテラシー”を身につけることである。
たとえば、新しい製品を使うときに「どう使うのか」と取扱説明書を読むように、テクノロジー時代を生きる私たちも、“デジタル社会の中でどう行動すべきか”という基本を理解する必要がある。
また、自分のSNSアカウントに投稿する内容については、「自分の発言は世界中の人に見られている」という意識を持つことが大切である。たとえ個人のページであっても、その言葉一つひとつが誰かを傷つけたり、誤解を生んだりする可能性がある。だからこそ、投稿する前に一度立ち止まり、冷静に見直す習慣を持ってほしいと思う。
さらに、SNS上で“積極的に発信しない”という選択肢もある。なぜ、コメント欄で怒りや不満をぶつける必要があるのでしょうか。もしSNS上での罵倒や感情的な書き込みによって社会問題が解決するのなら、それも意味があるかもしれない。しかし現実には、社会は政策や制度、実務的なプロセスを通して着実に動いている。だからこそ、私たち一人ひとりがデジタル空間における自分の立ち振る舞いを見つめ直し、冷静で成熟したオンライン行動を学ぶことが求められているのである。

(ウランバートル市、2025年9月19日、国営モンツァメ通信社)サマンサ・モスティン・オーストラリア総督はモンゴル訪問の一環、記者会見を開催した。
31年前にビル・ヘイデン元オーストラリア総督がモンゴルを訪問して以来、私が2人目の訪問者となった。1990年代に両国関係が構築・強化され、深い絆を持つようになった。オーストラリアはモンゴルの第三隣国であることを誇りに思っている。同国賓訪問の際、両国の協力関係が新段階に格上げされた。両国は教育分野をはじめとする様々な分野で強固な関係を築いており、特にオーストラリアの大学・高等教育機関の卒業生による活動を通じて、ますます発展している。1990年代から始まった奨学金プログラムにより、6000人の学生がオーストラリアで教育を受けている。また、数万人のモンゴル人がオーストラリアで学び、働いている。同訪問の際に「オユトルゴイ」プロジェクトを視察した。リオ・ティント社とモンゴル政府が推進中の同プロジェクトにオーストラリアの数百社のエンジニアリング会社やコンサルティング会社が関わっている。同プロジェクトを通じてモンゴルの未来を担う若者たちが知識と技能を身につけている様子を見るのは本当に喜ばしいことであった。二国関係の様々な側面を私に示してくださったモンゴル国大統領に心より感謝を申し上げる。

ーー今回のモンゴル訪問は、政治的にも経済的にも二国関係を一段と引き上げる意義深いものになったと考えています。モンゴルにとって、鉱業以外にもインフラや開発分野への投資が非常に重要であると見ていますが、この点についてオーストラリアの投資家らはどのように考えていますか。
まず申し上げておきたいのは、私は個人としていかなる投資や金銭面での利益関係も持っていないということである。過去30年間、モンゴルの投資環境を整えるために尽力してきた。例えば、リオ・ティント社がモンゴルに投資し、事業を実施したことは非常に成果のある取り組みとなった。要するに、企業は重要な事業を実施してきた。両国が民主的な価値観を共有し、法の支配を尊重し、法律を遵守していれば、投資にとって信頼できる安定した環境が整うと考える。
ーーご訪問中に、オーストラリアが実施している事業を実際にご覧になりました。モンゴルで進行中のプロジェクトの成果や実施状況をどのように評価していますか。
二国が友好的で親密な関係にあれば、間違いなくパートナーシップに繋がると実感した。パートナーシップから良い成果が生まれる。その成果を最も明確に示している実例は技能向上である。オーストラリア人がモンゴル人にスキルを身につけさせ、育成してきたため、モンゴルの若者らは世界各国で働けるようになった。このような成果に対し投資家らは大きな誇りを感じている。投資は単にビジネス分野にとどまらず、教育や市民社会、ジェンダー平等、所得面で取り残された人々への支援など様々な形で行われる。大統領も英語教育の向上を特に強調した。従って、オーストラリアは今後も教育分野での協力関係を発展させ、特に英語教員の派遣や支援に注力する。
ーー近年、モンゴルでジェンダー平等や女性の意思決定の場での参加拡大に向けた取り組みが進められています。高い地位にある女性としてこの点についてどのようにお考えでしょうか。
今回の訪問を通じて、モンゴルが女性の経済的権限の向上と自立支援に特別な関心を寄せていることを認識した。例えば、「オユトルゴイ」プロジェクトの全従業員の25%が女性である。これはモンゴルだけでなく、世界に向けても非常に重要なメッセージとなっている。なぜなら、鉱業分野で女性が働くことは決して簡単なことではない。また、ゲル地区を訪れ、女性の気候変動への適応能力を向上させる取り組みも見た。母親であり地域のリーダーでもある方が気候変動に対応するため太陽光パネルを設置し、クリーン・エネルギーを活用しているのを目の当たりにして、とても感動した。これらの事例をオーストラリアで紹介したいと考えている。
ーー「オユトルゴイ」のようなプロジェクトを通じてモンゴル・オーストラリア関係を更に発展させることは可能でしょうか。
政治的な立場からコメントできない。二国間パートナーシップの発展について両政府が協議して決定すべき。 しかし、「オユトルゴイ」プロジェクトを視察する際、投資を呼び込む必要があること、両国とも民主主義国家であるため、基本理念が共通していることを実感した。民主的な価値観を有し、安定した投資環境が整っている国への投資は素晴らしい機会であると考えている。モンゴルで事業を展開している企業代表者らは、鉱物資源分野の発展により、モンゴルの国内総生産に貢献するだけでなく、世界の富創出にも寄与していると考えていることを表明した。つまり、鉱業分野は今後も重要な分野であり続けるであろう。新事業に関して両国のビジネス関係者が決定するであろう。二国間の投資は広範囲にわたり、深い意味を持っている。モンゴル人はオーストラリア人に学び、またオーストラリア人もモンゴル人に学んでいる。これも投資の一つの形である。

(ウランバートル市、2025年8月11日、国営モンツァメ通信社)オフナー・フレルスフ大統領の後援のもと、「世界女性起業家フォーラム」がモンゴルで今月25日と26日に開催される。
このフォーラムは大統領が女性を支援した大規模の4回目の事業で「Inspire-Impact-Invest」とスローガンのもと、世界25ヵ国の216人の女性起業家が集結する。同フォーラムを迎え、大統領の事業・プログラム調整、市民社会政策顧問から話を伺った。
--オフナー・フレルスフ大統領はジェンダー平等の保障、女性関与、リーダーシップの拡大に注力しています。これに関する大統領が提唱した主な事業、法的環境改善からお話をはじめましょうか。
―モンゴルは偉大な歴史、特殊な遊牧文化の価値観を誇る国民である。我々は母を尊敬し、女性を大事に愛し、言葉、教え、行動を敬意してきた。これは正しい伝統だけではなく、現代でも社会の価値観、政策の基礎思想のままである。モンゴルは女性権利を非常に昔から保障し、どんな政権のもとで、尊重してきた。我が国は、ジェンダー平等確保に関して、地域の諸国に比較すると着実な進歩、豊富な経験の積んでいる。それを共有する成果が大いにある。モンゴル国は1924年に制定された最初の憲法では、男女平等の権利を認め、女性に、選挙権を付与した。これは、アジアで初かつ歴史的な出来事である。我々は、歴史的な100周年を昨年お祝いし、女性権利保障を目的とした初の非政府組織である「モンゴル女性組合」の周年を迎えた。我が国は歴史的な成果を誇るべきではあるが、政治における女性関与は十分な基準に達していないのは調査結果を見られる。大統領の提唱で上程した「政党に関する法」改正案、「国家大会議の選挙に関する法」改正案は昨年、可決された。したがって、直近の8回の国会選挙によって選出された608人の議員のうち、女性は60人(全体の10%)にとどまっていた。しかし、2024年の総選挙で32人の女性議員が選出され、全体の25%を占めるまで増加した。これにより、アジア地域で国会における女性参画を主導する国となった。また、上記の法律では、2028年以降、政党は立候補者の少なくとも4割りを同一の性別で構成することが義務づけられている。この基準が達成されれば、2030年に「持続可能な開発(SDGs)目標5」つまりジェンダー平等保障は完全に実現される。

(ウランバートル市、2025年8月6日、国営モンツァメ通信社)世界の舞台でバレエ芸術を広めているモンゴル人バレエダンサー、エ.アーンダーさんが夏休みの帰国中にインタビューを伺った。
米国・コロラド州で生まれ育った同氏は、5歳のときにバレエを習い始めて以来、一貫して努力を重ねてきた。国際的なコンクールでも優れた成績を収め、海外のバレエ団からも高く評価されている、数少ないモンゴル人バレエダンサーの一人である。現在はドイツ・ザールラント州にあるクラシック芸術劇場でプロのバレエダンサーとして活躍している。
―― クラシックバレエの世界に足を踏み入れたきっかけは何だったのでしょうか? また、ここまでの成功において、ご家族の支えが大きかったのではないでしょうか。
5歳のときにバレエを始めた。それ以前は、歌や絵画、ゴルフ、水泳など、いろいろなことに興味を持っていたが、中でも体の動きで感情を表現できるバレエに強く惹かれた。最初の先生はロシア人で、厳しい中にも多くのことを学んだ。その後、ワールド・ダンス・スクール、コロラド・クラシック・バレエ、デンバー芸術学校で基礎を学び、更にサンフランシスコ・バレエ・スクールに進学した。2021年に同校を卒業し、シカゴの『ジョフリー・バレエ』で2年間研修を受けた後、現在はプロとして舞台に立っている。
最初は、バレエがこんなにも厳しく、また多くの費用がかかる世界だとは知らなかった。例えばトウシューズは、一日使っただけで履けなくなってしまうこともあり、1足で100㌦もする。そんな中、両親は私のために懸命に働き、高収入の仕事を目指して努力してくれていた。その姿を見て、私自身も決して諦めずに努力し続けようと決意した。私のすべての成功の背後には、家族の深い愛情と支えがある。
両親は1998年にモンゴルから米国に移住し、私を愛情いっぱいに育ててくれた。両親はいつも私のそばにいて、どんなときも応援してくれた。その支えがあったからこそ、今の私がある。私の家族は社会活動にも積極的で、その姿勢は今も変わっていない。
ーーバレエダンサーとして舞台に立つうえで、美しさや才能、均整のとれた体型が求められるとよく言われます。あなたが選んだバレエという職業の、最も大きな特徴は何だと思いますか。
バレエは“音のない演劇”だと思っている。言葉を使わずに、体の動き、表情、ジェスチャーで感情やストーリーを表現する。
一方で、コンテンポラリーダンスは、私にとってもっと自由な表現ができる場でもある。一方、クラシックバレエには、舞台に立った瞬間に自分の持てるすべてを注ぎ込まなければならないという、張り詰めた緊張感がある。一度ミスをしてしまえば、やり直しはできない。
だからこそ、自分を限界まで追い込むこと、より高みを目指そうとする気持ち、それがとても美しいと感じる。バレエには“到達点”というものがなく、生涯をかけて学び続ける芸術である。どんなに優れたソリストでも、成長の余地があり続ける。だから私は、バレエこそ“学びの美しさ”を体現している芸術だと思っている。
私自身、これまで学んできたことを次の世代に伝えたい、バレエを愛する若者たちに少しでも刺激を与えたいという想いがある。いつか自分なりの形で、モンゴルのバレエや舞台芸術の発展に貢献できたら嬉しい。
私は海外で生まれ育ったが、モンゴル人であることをいつも誇りに思う。初めて自分で振付けたモンゴル舞踊では、民族文化の要素を取り入れたところ、外国人の観客からとても高い評価をいただいた。それが自信にもなり、創作の幅が広がっていった。
モンゴルに帰国する前には、『The HU』の音楽とモンゴル舞踊のリズムを融合させたコンテンポラリー作品を振付けた。舞台の背景には、モンゴルの雄大な自然を映し出したが、それがとても好評で、観客の方々から『モンゴルに行ってみたい!』という声をいただいたのがとても印象的であった。
ーーバレエダンサーの方々は、人生の大半を舞台の上で過ごされると思いますが、リハーサルの合間やオフの日はどのように過ごされていますか。
私は普段のほとんどの時間をバレエに捧げているが、それ以外にも写真を撮ったり、旅行したり、登山やヨガを楽しんだりと、たくさんの趣味がある。
バレエという芸術は、60%が頭脳と精神、残りの40%が身体の動きでできていると感じている。そのため、脳を休ませる時間を大切にしており、自然の中に身を置き、山や川を眺めるのが好き。私が住んでいた米国・コロラド州には、標高4200㍍以上の山が58座ある。全米でも70座に満たないこの高峰のうち、私はこれまでに12座を登った。それは私の誇りでもある。
今回、久しぶりにモンゴルに戻ってきて、自然の美しさからたくさんのエネルギーをもらっている。

モンゴルの政治、宗教、文化芸術の偉大な功労者であるウンドル・ゲゲーン・ザナバザルの生誕390周年が本年にあたる。モンゴルの偉大な啓蒙思想家であり、初代ボグドの歴史的功績、芸術的才能、そして遺した文化遺産について、ザナバザル美術館の館長であるP.バイガルマー芸術学博士に話を伺った。
ーーモンゴルが誇る稀代の偉人、ウンドル・ゲゲーン・ザナバザル(「徳の高い活仏」の意)の生誕390周年が本年にあたります。偉大なる人物の名を冠したこの美術館には、どのような素晴らしい作品が所蔵されているのでしょうか。
ウンドル・ゲゲーン・ザナバザルによって確立された様式や、その御手による作品は、美術館の展示品の中で最も価値の高いものとして評価されている。モンゴル美術の偉大な代表者であるウンドル・ゲゲーンの手になる多数の作品が、当館には所蔵されている。
その中には、「白ターラー」、五仏(五智如来)、「菩提ストゥーパ」、「マイトレーヤ」、「柔和なる音声」、および「ハンドジャムツ母像」などのオリジナル作品が含まれている。
また、粘土像、鋳造仏、タンカ(仏画)、アップリケ、木版画など、様々な技法を用いて表現された様式に基づき、ウンドル・ゲゲーンの後の弟子たちによってウンドル・ゲゲーンの姿や仏像も、美術館の貴重な展示品の一部である。更に、ウンドル・ゲゲーンの美術制作された作品群も当館に保存されている。

ーーパリの「ルーヴル美術館」でウンドル・ゲゲーンの作品が展示された際、現地紙は「偉大なるザナバザル」と評したといいます。これは、レオナルド・ダ・ヴィンチをはじめ、世界的な巨匠たちと肩を並べるほどの偉大な才能を持っていたことを示すものです。 ウンドル・ゲゲーン・ザナバザルの唯一無二の芸術的魅力は、どこにあるのでしょうか。
ザナバザルの作品の創作技術の素晴らしさについては、多くのことを語ることができる。1993年にフランスでモンゴルの優れた展示品を集めた展覧会が開催された。この展覧会には、ウンドル・ゲゲーンの「グリーンターラー」像が展示された。その際、フランスのメディアで大きな話題となり、美術評論家や研究者たちから高い評価が寄せられた。

「グリーンターラー」「金剛ターラー」「白ターラー」は、モンゴル美術のみならず、世界の仏教美術においても他に類を見ない傑作と高く評価されている。パリのルーヴル美術館で展示されて以来、国際的な専門家らがこれらを「アジアのマドンナ」と称えた。
これにより、ウンドル・ゲゲーンの作品は、モンゴル国内にとどまらず、アジア、東洋、さらには世界の芸術を代表する傑作の一つであることが明らかになった。さらに、ルネサンス期のレオナルド・ダ・ヴィンチやミケランジェロといった偉大な巨匠たちの作品にも匹敵するほど、極めて高い芸術的完成度を備えた素晴らしい作品であることが示されている。
人間の身体の比率や寸法に関する特別な教えは、「ダンジョール(仏陀の大乗経典で、基礎理論を網羅した百科事典のような書物)」にも記されている。例えば、古代インドの仏像制作における基準寸法を示した『プラティマラクシャナ』や『チトララクシャナ』といった大乗仏教経典が存在する。ウンドル・ゲゲーンは、これらの経典に基づき、「ダシャタラ」や手のひら10枚分の長さといった基準を用いて作品を制作していた。
このように、ウンドル・ゲゲーン・ザナバザルがモンゴルのみならず東洋美術全体における古典的巨匠であることは明らかである。同氏は、インド、チベット、ネパールにおける仏像造形の厳格な形式や伝統を独自の発想で打ち破り、モンゴル民族の美的感覚や人々の生活習慣、願いを巧みに取り入れて表現した。
その結果、ウンドル・ゲゲーンは、当時として前例のないモンゴル独自の仏像造形流派を築き上げるとともに、彫刻芸術におけるブロンズ鋳造技術の基礎を確立した人物として正当に評価されている。
ーーウンドル・ゲゲーン・ザナバザルの作品には、どのような卓越した技法が見られるのでしょうか。
ザナバザルの作品は、人間の体の美しさや形態、手の動き、所作、表情、衣装、装飾品に至るまで、細部を一切妥協せず、緻密な寸法と比率に基づいて制作されている。「グリーンターラー」「ホワイトターラー」「五本尊」「金剛ターラー」などの作品は、世界的にも希少な古典彫刻の最高峰と高く評価されている。
また、ウンドル・ゲゲーンの彫刻は、単なる外見の表現にとどまらず、仏像に込められた深い意味や思想、感情までも巧みに表現している。そのため、見る者に深い信仰心を呼び起こし、仏教哲学を芸術を通じて伝える力を備えている。
作品はまるで命が宿り、動きや感情を持っているかのように感じられるため、モンゴルの人々はウンドル・ゲゲーンを「転生した芸術家(生まれ変わりの名匠)」と称えている。
また、ウンドル・ゲゲーンは、仏教美術において独自の表現スタイルを確立した人物でもある。現在、世界中の研究者らが同氏の作品や芸術思想を研究しており、ウンドル・ゲゲーンが制作した仏像や美術品は、各国のオークションにおいて高額で取引されている。
