バトナイラムダル氏:ナツァグドルジは「サイン・サナート」等の筆名で寄稿していた

社会
b.dagiimaa@montsame.gov.mn
2026-04-27 16:58:22

(ウランバートル市、2026年4月27日、国営モンツァメ通信社)「近代文学モンゴルの父」であり、国民的大作家であるダシドルジ・ナツァグドルジの生誕120周年という記念すべき節目を本年を迎えている。国営モンツァメ通信社は、作家・詩人としての顔のみならず、民族学者、歴史家、翻訳家、ジャーナリスト、政治家など、多岐にわたる分野で同氏が果たした足跡を連載形式で紹介している。


今回は「ジャーナリストとしてのナツァグドルジ」に焦点を当て、国防セクターおよび軍事中央紙『ソヨンボ』の元編集主幹(責任秘書)であるジャーナリスト、P.バトナイラムダル氏に話を伺った。



――歴史を通じて、モンゴルではナツァグドルジを「天才詩人」「大作家」という側面からのみ捉え、紹介してきました。今回のインタビューの目的は、「ナツァグドルジは軍事紙の創設者であり、編集者の一人であった」という事実を明らかにすることにあります。まずは、大作家の名が初めて新聞や雑誌に掲載されたのはいつのことか、というお点から始めましょう。


ナツァグドルジの名が初めて活字となったのは『オリア(呼声)』紙です。「文化を普及させよう」という記事の署名に同氏の名があります。これが、ナツァグドルジの名が新聞・報道の世界に刻まれた最初の事例です。『オリア』紙はモンゴル人民党および人民政府の最初の公式機関紙であり、1921年7月〜1922年12月までに計26号が発行されました。


――その後、同氏は『アルデーン・ツェレグ(人民軍)』紙の編集長に就任したと伝記にありますね。


陸軍省教育局の1923年12月24日付の命令には、「兵士への読み書き教育と国民の啓蒙活動を強化するため、『アルデーン・ツェレグ』紙を1000部発行し、無料で配布せよ」と記されています。これに基づき、1924年2月5日に同紙の創刊号が発行されました。


同命令により、同紙の発行責任者としてN.ジャダンバとD.ナツァグドルジの二人が指名されました。国防セクターおよび軍事中央紙である現在の『ソヨンボ』紙には、今なお「創設者:N.ジャダンバ、D.ナツァグドルジ」という肩書きが記されています。「発案者」ではなく「創設者」です。命令によって任命されたからですね。私たちは推測で語るのではなく、当時の記録に基づいて明らかにすることが重要です。


当時、国内で発行されていたほぼ全ての新聞には二人の編集長がいました。二人は対等の権限と責任を持ち、新聞を遅滞なく発行する体制を整えられていました。一人が地方出張や他の職務で不在でも、もう一人が編集業務に専念できるようにするためです。


一人の編集長はジャダンバ、もう一人がナツァグドルジでした。ジャダンバは全軍評議会のメンバーであり、モンゴル人民革命青年同盟の中央委員会会長でもあったため、主に中央委員会に詰めて編集に携わっていました。一方、ナツァグドルジも全軍評議会のメンバー兼書記長を務めるなど、多くの公務を兼任していました。


ナツァグドルジと共にドイツへ留学した言語学博士であり、第1回ナツァグドルジ賞(1966年)の受賞者でもあるB.ソドノムは、「『アルデーン・ツェレグ』紙に掲載された記事の文体や表現は、当時の文学的規範とモンゴル語の法則に厳格に従って執筆されていた」と記しています。この記述から、ナツァグドルジがいかに真摯に軍事紙の業務に当たっていたかが分かります。20世紀初頭の貴族階級の出身で、公務員の息子として高度な家庭教育を受け、政府の要職にありながら詩や小説を綴っていたナツァグドルジにとって、軍事紙を創設・編集するという歴史的使命は、歴史的な流れの中で担った役割といえます。


――ナツァグドルジはどのくらいの期間、軍事紙の編集長を務めたのでしょうか。


1924年2月5日〜1925年7月まで務めた後、ソ連のレニングラードへ留学しました。在任期間は短いものでしたが、同氏が築いた軍事紙の土台は揺るぎなく、創刊から102年経った現在まで、通巻10100号が途切れることなく発行されています。


――『アルデーン・ツェレグ』紙において、同氏はどのようなジャンルの記事を執筆していたのですか。


当時の執筆文化には、西洋的な影響とも言える一つの特徴がありました。新聞の執筆者が実名を出すことは極めて稀で、多くは無署名か、必要があればペンネーム(匿名)を使用していました。たまに寄稿する程度の人は匿名を使いませんでしたが、定期的に執筆する人々は多くがペンネームを使用していました。一人が複数のペンネームを使い分けることも珍しくありませんでした。


――そうなると、ジャーナリストとしてのナツァグドルジの著作を特定するのは難しいのではありませんか。


ナツァグドルジの文体を詳細に研究するか、あるいは当時のペンネームと実名の対応を記した古いアーカイブ資料を紐解くことに限られます。



1924年4月7日号の紙面に、「妙計は猛攻に勝る(オラン・アルガ・ニ・オールガラン・バータルハース・イルー)」という題の際立った論説があります。この記事の末尾には『サイン・サナート(善意の人)』という署名がありますが、これがナツァグドルジのペンネームなのです。


絵画:D.ミャグマル作『D.ナツァグドルジ』


他にも同氏がペンネームを使用した例はあります。記事「モンゴルの女性たち」の末尾に、括弧書きで「パグマドゥラム」と記されたケースがそれです。妻の名を実名で記したのは、彼女自身が定期的な寄稿者や新聞社の職員ではなかったため、その名を用いたのと考えられます。


――ナツァグドルジが残したジャーナリスティックな名作を挙げるとすれば、どの作品を推しますか。


詩的な体裁をとった紀行文『ベルリン・ヤブサン・ザミーン・テムデグレル(ベルリン旅行記)』を挙げたいと思います。328行に及ぶこの長編詩的な紀行文は、ウランバートルからベルリンに至るまでの自然、街並み、各地の人々の風習や暮らしを、作家としての感性とジャーナリストとしての鋭い視点の両面から見事に描き出しています。


――ナツァグドルジのジャーナリズム活動に焦点を当てた学術的な研究や、書籍として出版されたものはあるのでしょうか。


私たちのインタビューの核心は、まさにその問いにあります。これまで、同氏が詩人や小説家としての側面から語られ、研究されてきたのは事実です。


稀代の文人として、ナツァグドルジが1920年代から30年代にかけて当時の新聞・雑誌と深く関わり、自らの著作を寄稿し続けていたことは、ナツァグドルジが遺した膨大な作品群からも明らかです。


しかし、同氏のジャーナリズム作品に特化した専門的な研究は、未だ存在しません。つまり、この分野は今後の本格的な研究の進展が期待される領域です。