13歳の柔道少女、大統領の推薦で日本留学

スポーツ
naranchimeg199@gmail.com
2019-03-29 09:44:18

 すごい少女がいたもんだ。バヤンホンゴル県の田舎から首都ウランバートル(UB)へ出て来て、柔道全国大会で得意の「一本背負い投げ」で優勝した。小柄ではにかみやの静かな少女の、どこにそんなファイトが潜んでいるのだろうか。少女の名前はビャムバドルジ・バダムガラヴ。9歳から柔道を始め、大好きな柔道一筋に精進して来た。ハルトマー・バトトルガ大統領が強く推薦して、この320日、徳島県の生光学園中学校(小・中・高一貫校)へ留学のため、日本へ旅立った。モンゴルの期待を一心に担って、めざすは2024年のパリ・オリンピックだ。

 このラッキーな運命の背景に、河内志郎モンゴル文化大使の大きな決断と支援があった。日本での身元保証人、5年間の授業料、生活費の一切を引き受けた。「この少女に日本・モンゴル友好の懸け橋となってもらおう。モンゴルのオリンピック選手育成に一役買おう」。これがモンゴル柔道協会会長でもあるバトトルガ大統領から直接依頼を受けた時の、河内文化大使の決意だった。

 「昨年、留学候補として2つの学校を視察するため、監督とバダムガラヴを日本へ招待。高知県の明徳義塾中学校と徳島県の生光学園中学校を見学した。監督、選手、選手の家族らで検討してもらった結果、私の地元である徳島の生光学園に留学したいと言う返事をもらった。私はモンゴル国の大統領から日本での育成を依頼されたので、親代わりとして一生懸命に面倒を見ていきたい」と河内さんは言う。

少女が両親と一緒に日本へ旅立つ前日、3月19日の午後、ロブサンツェレン・ロブサンデムベレル柔道監督(49歳)とバダムガラヴ選手にインタビューした。監督は柔道国際マスターで、国際審判員の有資格者。10年間、国内柔道代表団に所属し、シニア・アジアカップでモンゴル初の銀メダルを獲得した。元サンバの国内王者でもある。

 

――監督とバダムガラヴ選手の出会いは?

 (監督)大統領と私は昔一緒にやっていた柔道仲間。私の出身地バヤンホンゴル県へ柔道監督として大統領から配属を命じられた。そこで出会ったのがバダムガラヴ。この子はまだ国際試合に出られる年齢ではない。それでも選ばれたのは基礎がしっかり出来ていて、素晴らしい素質が見込まれた。日本への留学を決めたのは大統領と河内文化大使。彼女は柔道が何よりも大好きで、闘争心がある。こわい犬にも恐れず、石を懐に入れて練習に通っていた。


――バダムガラヴさん、両親と離れて日本へ留学。どんな思いですか?

 日本へ行けるのは夢のよう、本当にうれしい。立派な選手となるよう、ベストを尽くしたい。大統領や河内さん、監督さんに感謝している。ありがとうございます!


――田舎からUBに来て、誰と暮らしていましたか?

 兄は体育大学の学生で柔道選手。姉も大学生。3人で一緒に住んでいました。


――日本へ柔道留学して、期待していることは?

 もっと強くなれる。日本人は礼儀正しいので、それを見習いたい。


あなたの得意技はなんですか?

 一本背負い投げです。私は背が低いけれど、これで背の高い相手に「技あり」をかけやすいのです。


――日本で柔道以外にやりたいことは?

 サッカーやバスケット。パソコン系はきらい。


――監督と一度、下見のために日本へ行ったことがありますね。どうでしたか?

 日本はとても発展していると思った。食事は魚も野菜も食べた。体重が減ると負けるので、がんばって食べました。


――あなたから見た監督は、どんな人ですか?

 生徒の面倒をよく見てくれる。柔道のために尽くしてくれる、やさしい人です。

 

バダムガラヴ選手は日本へ渡り、留学先の生光学園中学校で柔道の練習に参加した。地元テレビ局の取材を受け、元気に練習する風景がニュースで放送された。モンゴル国立体育学校の8年生だった彼女について、ゾリグバートル校長の評は、「我が校から日本に留学したのは逸ノ城をはじめ12人。バダムガラヴは田舎から来た努力家。人生は戦い、スポーツは3倍の闘い。努力する者が勝つ。柔道を通して日・モの関係も深まる。パリ・オリンピック選手として出場できることを期待している」とはなむけの言葉を送った。

 一方、河内文化大使は大統領の依頼で、もう一人、将来有望なロブサンデムベレル・セルゲレン選手(18歳)を柔道の名門、奈良県の天理大学へ留学する支援をしている。セルゲレン選手はこの6月、高校を卒業後、天理大学に科目履修生として入り、来年4月、正規学生として入学の予定。「モンゴル人は個人スポーツに才能がある。大きな夢を持つ若者を応援していきたい」、河内さんは微笑みながらそう語る。

 

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