フレーツァム祭典が開催

カルチャー
jp_dotood@montsame.mn
2015-09-21 16:10:25

モンゴルでは1937年の粛清によって、チャムの伝統が途絶えてしまった。中国においても、文化大革命によっ て、寺院が破壊され、チャムの伝統が途絶えたが、1980年代からチャムの復元復興が始まり、現在でも中国領内の一部のチベット仏教寺院では、チャムの復 元・復興が進められている。

フレーツァムは、現在のウランバートル市内の中心に位置していたズーンフレー寺院において、1811年から1937年までの間 計127回執り行われたモンゴルを代表するチャム(*下記参照)のことである。夏の最後の月の7日~9日に秘密裏に内チャムが執り行われると、9日の内 チャム終了後、内チャムが執り行われた堂の前庭で外のチャムが執り行われる。1811年、第四世ジェプシンダンバ・ホタクトの時代、チベットのダシルンポ 寺よりチベット人増が訪れた際、ズーンフレー寺院にチャムが伝授されたのが起源とされている。本来、チベットの寺院では、チャム堂に所属するラマ僧が堂内 で、年間を通じ、観想修行と鼓舞の訓練を行うが、モンゴルの場合、選ばれたラマ僧達が、チャムの2か月前に準備に入る。夏の中の月(5月)の15日、その 年の担当が振り分けられるが、この決定は、ハムバと四名のチョクチン・ゲスグイ(修会を指導する僧)を通じジェプシンダンバ・ホタクトの承認を得た後に、 各自に通達される。このように毎年ズーンフレー寺院ではツァムが執り行われている、今年は、2日に執り行われ、多くの観光者や市民と信心者が集まった。

チャムとは?

モンゴル人の暮す地域はチベット仏教圏である。このチベット仏教圏は、特に、清代、清朝皇帝による統治政策によって、「中華世界」に対峙する形で、万里の 長城の北側、「モンゴル・チベット世界」として構築された。このような「モンゴル・チベット世界」において、チベット仏教の伝来に伴いチベット人ラマ僧に よって伝播された集会が「チャム」である。本来は、単なる仮面舞踊ではなく、伝法灌頂を受けたラマ僧に限って修行が許される秘教儀礼であり、秘教修行の観 想法を伴って行う集会である。この中には、現世利益を求める増益法、家内安全・延命長寿を願う息災法、豊穣を願う請雨法、敵を倒す調伏法などの秘法の実践 が含まれている。チャムを行う際に重要になってくるものに、伝法灌頂を受けたラマ僧しか読むことが許されてない、チャムの儀礼書がある。これは、専門用語 で記された大まかな儀礼の次第であり、口伝なくしては理解し得ないものであるため、儀礼書を明らかにすることはラマ僧であっても固く禁じられている。

チャムの起源

チャムの起源については、八世紀にインドからチベットに秘教を伝授したバドマサンババがチベットのサムイェー寺建立の際の地鎮祭と落慶式に鼓舞を行い、悪 魔退治を行ったのがその起源とされている。インドからチベットに秘教と共に伝来したチャムが、その後、チベット仏教の伝播に伴い、チベット人のラマ僧に よって、モンゴルを含む、他のチベット仏教圏へと伝授されていった。そのため、地域によって、名称は異なるものの、モンゴル、ブータン、ネパール、ラダッ ク、内モンゴルといったチベット仏教圏には様々なチャムが存在している。北京で最大のチベット仏教寺院である雍和宮でもチャムが執り行われている他、モン ゴル系民族が居住するロシアのブリヤート、トゥバ、カルムイク共和国もチベット仏教圏であり、モンゴル同様、スターリン時代の粛清期までチャムの伝統が あった地域である。チャムの名称については、中国西蔵自治区では「チャム」、モンゴル、ロシアのブリヤート、カルムイク、トゥバでは、キリル文字表記化に より「ツァム」と称されている。そのほか、ブータンではツェチュ、ネパールではマニランドゥなど、表記法の違いを含め、地域によって名称は様々である。 「チャム」はチベット語であるが、その語源は明らかではない。

 

 

 

 

 

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